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江戸絵画の分水嶺となった渡辺始興を知っていますか?

東京国立博物館(トーハク)の本館2階「書画の展開―安土桃山~江戸」の展示室が大変なことになっています! 作者のラインナップだけを記していくと、円山応挙から始まり伊藤若冲、呉春、曽我蕭白、岸駒、長沢芦雪などのビッグネームが並んでいます

同展示室では安土桃山から江戸時代の……錦絵や浮世絵を除く(これらは別室に展示)……絵画作品が展示されています。この時代の絵画史について、トーハクのサイトには次のように記してあります。

「安土桃山時代から江戸時代の絵画は、永徳探幽をはじめとする狩野派を中心に、宗達・光琳・抱一らの琳派大雅・蕪村らの南画派応挙・呉春を祖とする円山派・四条派若冲・芦雪・蕭白らの個性派の画家たちを輩出し、百花繚乱の相を呈しました。」

そして先月までの展示では、このうち狩野派から琳派、そして渡辺始興などの「写生派」ともいえる、トレンドが感じられる展示構成となっていました(ちなみに「写生派」などとは、誰も呼んでいないっぽいです)。

そして12月22日までの今季は、ポスト狩野派とも言える……写生で得た画技を、どうアートへ反映させていったのかをより感じられる、円山応挙や伊藤若冲……呉春などの流れがトレースされています。

ということで、やっぱり上に書いた順番どおりにnoteしていくと、まずは渡辺始興さんですね。誰やねん? という感じの作者ですが、かの円山応挙さんに「名人」だと言わしめた方なのだそうです。円山応挙さんが、どう褒めたのかの典拠が見つけられませんでしたが、姑射若氷著の『円山応挙』には、「彼(円山応挙)は長崎の渡邊始興を慕つてその筆致に私淑し、これから写生主義を以て自在の筆を揮った」(姑射若氷 著『円山応挙』)とあります。

わたしの勝手な認識だと、例えば絵画における狩野派は幕府や将軍のような絶対権力者だったわけです。多くの絵師が幼少期には狩野派の絵師に学んでいますし、狩野先生が良いと言えば良い作品なわけで、ダメといえば世の中で評価されにくい状況ですね。そんな狩野派の一族独裁体制の江戸(時代)絵画界で、反旗を翻していくのが、渡辺始興さんであり、後に続く円山応挙さんだったわけです……というのはわたしの勝手なイメージですけどね……幕末の動乱に比していえば、狩野派は徳川幕府であり、渡辺始興さんは水戸藩であり、倒幕に立ち上がったのが伊藤若冲さんや円山応挙さんらの円山四条派なんです……というと、イメージしやすいでしょうか? ハイ……分かりづらいですね(笑)

今回の主要登場絵師&浮世絵師や文化人の年表
※大田南畝は長生きなので収まりませんでした

■もっと写実的に描きません?

まず中国大陸で写生または写実主義的な絵画が、水墨画と異なるトレンドとしてありました。そのトレンドは、日本絵画界を狩野派が牛耳じりつつあった安土桃山時代や江戸時代初期の日本にも、伝わっていたようです。そんな写生自体を、狩野派も無視していたわけではないけれど、当時の狩野派は雪舟さんとかの水墨画に夢中だったんですね。それで狩野派だって写生はしていたけれど、写生で培った「目で見たモノをそのまま描写する」という写実主義には、あまり積極的ではなかったのだと思います。

狩野派だって写生してたんだぜ! という証拠は、トーハクでも確認できます。先日は、1602年〜1674年……江戸の最初期に生きた狩野探幽先生の、素晴らしい写生図巻が展示されていたばかりです ↓

ここからまたわたしの勝手な想像なんですけど、狩野派のイメージとしては、東京藝大のようなものに近かったんじゃないかと思います。もしくは小学校から高校にかけて通うような絵画教室でしょうか。とにかく生徒には、狩野派が決めた教本のようなお手本を、徹底的に練習させる。独創性の前に、基礎を叩き込む……といった感じではなかったかと。ただし、やっぱり若い人っていうのは、自分の個性を出したいんですよね。それで「狩野派で続けていてもダメだ!」となって、我を押し出すような人たちが続出していった……で、その最初の方にいたのが、前回から引き続きの渡辺始興さんです。

先月までの展示のクライマックスは渡辺始興さんでした……絵画史の中での立ち位置としては「むっちゃ写生していた人」というポジションなのですが、先月展示されていた《農夫図屛風》を見ても……写生ってどこに生かされている? という印象でした。むしろ狩野派の影響の方が感じられる作品だった気がします。

渡辺始興《農夫図屛風》

そして現在、「書画の展開―安土桃山~江戸」のプロローグのように展示されているのが、《池田宿図屏風》です。こちらはですね……写生の成果が、とっても分かりやすいです。

『平家物語』巻第十「海道下」の場面。一の谷の合戦で敗れた平重衡が、鎌倉へ護送される途中、天竜川を渡る前に池田宿に立ち寄り、侍従という女性と歌の贈答をしました。宿のびた風情が重衡の前途を物語っています。筆者始興は、狩野派と光琳を学んだ近衛家の画家です。

解説パネルより

この川辺で髪を洗っている女性の立ち姿だけでも、今までとは異なる気がします。それほど精緻に描きこんでいるわけではありませんが、少しセクシーさが漂っていませんか?

↑ 手が滑って色みが変になってしまいましたが、こちらの舟や、↓ 漕いでいる人の立ち姿や表情なども……この時代にしては新しい雰囲気が出ていたのではないでしょうか。具体的には舟がとても写実的です。櫂を前後に押し引きしている人も、明らかに動きを感じます。これって……むしろ浮世絵の雰囲気な気がします。

↓ 屋敷には屋根がしっかり描かれていますし、屋根の上に並べられた重しのような石や枝もリアルに描かれています。

あとは、馬の描き方がが上手! 馬が人に引っ張られた時に、少し抵抗して足をばたつかせている……こういう姿をしていますよね。

↓ なぜかこのエリアだけ馬も木も、描き方がユルイというか、手を抜きました? な感じなんですけど、専門家の方だとどういう風に評するのか、聞いてみたい気がします。いやでも近くに寄って見ると、馬は筆数が少ない割に、かなり躍動的な雰囲気で……これはこれで写実的だなとは思います。

最後に、改めて年表を見てみした。江戸初期は、上流階級向けの絵に関しては、狩野家独裁体制ではあったものの、一般の武士階級向けには、錦絵や浮世絵が育っていった時期ですよね。つまりは、絵に対して求めるものが、精神性だったり芸術性だったりから、エンタメ性を求めるようになっていた……と仮定します。錦絵や浮世絵のエンタメ性を、上流階級向けの画軸にも反映していこうという動きがあったのかもな……と。もちろん、同時期に加賀藩主の前田網紀など、上流階級で博物学がブームになっていく……ということも、写実性が求められるようになった大きな要因でもありますよね、きっと。そうした色んなトレンドや雰囲気が、渡辺始興や伊藤若冲、円山応挙などを生んだ……と、仮定して今回のnoteを終えようとおもいます。

今回の主要登場絵師&浮世絵師や文化人の年表
※大田南畝は長生きなので収まりませんでした

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かわかわ
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