記事に「#ネタバレ」タグがついています
記事の中で映画、ゲーム、漫画などのネタバレが含まれているかもしれません。気になるかたは注意してお読みください。
見出し画像

忘れたい記憶も、忘れてしまった思い出も〜燃え殻さんの話

時折、確信めいた予感がする。

例えば、今の自分に必要だと思った書籍は、その後も繰り返し読むことが多い。

先月、肺炎で床にふせるしかなく、作業も趣味も満足にできなかった頃、それはやってきた。

今年、親交のあるぷんさんとオンラインでお話しした際、ある作家さんにハマっていると伺った。
燃え殻さんだ。

燃え殻さんはテレビ業界の美術制作の傍ら、作家として一躍脚光を浴びた方である。

2017年に出版した小説「ボクたちはみんな大人になれなかった」がベストセラーとなり、その後もエッセイやラジオ番組、イベント登壇と、活動は多岐に渡る。

ろくに眠れず横になっているだけの時間、お供にしていたのはラジオや音声配信だった。
ぷんさんに勧められて数ヵ月後、ふと思い出してポッドキャストにあった燃え殻さんのエッセイの朗読を聴いた。

人柄は声音に出る。
夜道にぽつぽつと光を落としている、街灯のような安堵感があった。

恥ずかしながら名前しか存じ上げていなかったため、プロフィールを検索してみた。
どうやらTwitter(現X)経由で出版社から声がかかり、作家デビューに至ったらしい。

過去のツイートをWebブラウザから拾い上げてみる。
世の中のひび割れに、淡々と、しかし的確に切ったカードを突き立てる洞察力。
脊髄反射でまくし立てる人とは真逆の、思慮深い言い回し。

例の確信めいた予感がした。
この人が書く文章を読むべきだ、と。

さらに調べていくと、刊行されているエッセイのひとつに『「死にたい」と母に泣きつき、包丁を畳みに突き刺して言われたひと言』とあった。

この人はどんな人生を送ってきたのだろう。
手始めに文庫化されているエッセイ2冊を購入した。

どちらも新潮文庫。
私が最も好きな文庫だ。

ほっそりした書体、くすんだクリーム色の本文用紙、先がぼそぼそした焦茶のしおり紐。
加えて、これまで夢中でページをめくった数々の名作は、半分くらい新潮文庫だ。
新潮文庫から出ている時点で信頼度が増した。

燃え殻さんの文章に対し、最初に抱いた感想は「やわらかい闇」だった。
夜な夜な布団にくるまり、ライトスタンドの灯りの下でひっそり読みたくなる文章。

小説やエッセイから離れてしまい、実用書を読む機会が格段に増えた。
だからなおさら、成果主義とかけ離れた内容と文体に惹かれたのだろう。

まず、気負いがない。
自分をよく見せようとか、話を盛った気配が一切ない。
「ご想像にお任せします」的なオチはあるが、あくまでさりげない。

また、結構な頻度で理不尽な思いをしている。
特に幼少期〜思春期の話は、浮かばれない記憶も多い。

それにも関わらず、怒りや恨みつらみは全くといっていいほど書かれていない。

飾らないお人柄なのは伺えるが、負の感情は潜んでいるはずだ。
だが漂ってくるのは、読者にそれを思い起こさせる出来事の描写だけ。

「どうすれば本読みじゃない人にまで届くだろうか、自分なりに研究に研究を重ねた」とあるが、それよりはご自身のスタンスが大きいと思われる。

恨むということではない。一喜一憂が、なにより自分を気疲れさせることだと、もう僕の心と身体が憶えているからだ。

『夢に迷ってタクシーを呼んだ』
P161より引用

端的に表すと、燃え殻さんは「視座が高い」人だ。

過去のツイートから分かる通り、世の中を二歩、三歩引いた場所から見ている。
俯瞰しているというより、店の席から、あるいは街の雑踏からぼんやりと眺めているようで、しっかり本質を捉えているのだ。

とりわけ、燃え殻さんの物事の捉え方を象徴しているエッセイがひとつある。

もう名前のついた感情や出来事に、もう一度違う名前をつけて、ほら共感するでしょ? という物語だった。それはまったくもってエモくない。エモーショナルじゃない。
(中略)そんな自販機みたいに百二十円入れたらガチャンと自動的に出てくるような言葉は、エモくない。一見してすぐに理解できる、知っていることに、別の名前や理屈をつけているだけだ。

『すべて忘れてしまうから』
P27〜28より引用

女性誌のエモ特集に「今、エモい作家」として紹介された燃え殻さんの見解はあまりにも痛快だった。

私は近藤康太郎さんの「三行で撃つ」を時々読み返す。とにかく風刺のきいた文章本なのだ。
「三行で〜」と合わせて、このエッセイはハリボテの看板へのアベックホームランだった。

結局、最初のエッセイは夜に1節ずつ読もうと思っていたのに、2日で読了してしまった。
飲み屋でお酒と小皿料理を挟み、3時間くらいずっと話を聞いていたい。
そんな気持ちに駆られた。

燃え殻さんとはあまり似ていないのだが、夫と出会う前に一度だけ、一回り上の男性と食事をした夜を思い出した。
橙色の照明に彩られ、夜景を背負ったその人は、くたびれた笑顔を浮かべていた。

エッセイだけでここまで心を掴んでくるのだから、小説はよっぽどなのだろう。

大型書店で1センチもない背表紙を見つけるのに難儀して、「ボクたちはみんな大人になれなかった」を購入した。

結果、この本も2日で読み終えてしまった。
読了後何日かは、感情が入り乱れてどう表していいのか分からなかった。

エモなんて言葉では片付けられない。
誰もが過去に味わった痛みや、やり場のない気持ち、忘れられない思い出で編み上げられたセーターのようだった。

誰も決してほどいてはいけない。もしほどいてしまったら、二度と元には戻せない。
私小説の体をとっているから、なおさら感じるのだろう。

話は現在と1990年代を行き来しながら、「ボク」が自分よりも好きになった唯一の女性を中心に展開される。

この彼女が絵に描いたような90年代のサブカル女子かと思いきや、単身インドまで行ってしまう強かな女性なのだ。

「ボクたちは〜」はNetflixで映画化されており、彼女を演じているのは朝ドラ「虎に翼」の主演が記憶に新しい、伊藤沙莉さん。
脳内で、彼女は完全に伊藤沙莉さんの姿とハスキーボイスで再現されていた。

一方ボクは森山未來さんが演じているのだが、あまりボクと森山さんは結び付かなかった。

それはなぜか。
おそらく、だいたいの読者が「ボク」と同化して話の世界を見てしまうからだ。
特に、90年代のテレビや音楽、世の中の雰囲気を肌身で感じてきた人は。
もしくは、ご本人の風貌が浮かんでしまうのかもしれない。

話は現在のボクから始まり、別れた彼女に誤ってフェイスブックの友達申請をしてしまう。
そこからエクレア工場で働いていた90年代へさかのぼり、彼女との出会いが描かれる。

なぜ、自分よりも好きだった女性と別れてしまったのだろう。
疑問を抱きつつ、過去の話は広がっていく。

ボクがテレビ業界の零細企業に転職し、同僚の関口とぎりぎりの生活を強いられたり、彼女と離れている間にスーと名乗る謎の美女と関係を持ったりする。

事細かにふれるのは、それこそ編み物をほどくように難しい。
印象的だった場面をいくつか挙げてみる。

ひとつは、ボクが仕事の書類を届けるため、クリスマスシーズンの街をバイクで走るシーン。

バイクで滑って流血が止まらないのに、書類を汚さないように地べたを這うボク。
道行く人で唯一、スーツの膝を濡らして一緒に書類を拾ってくれたのは、カタギではない男性だった。

エッセイを並行して読んでいると、燃え殻さんは学生時代から、性根の優しいワルと縁がある。
ただし、大体は後に彼らと会えなくなってしまう。

マックのコーヒーを100倍濃くしたような、ブラックな環境下での仕事。
それでもボクはウルフルズの「ガッツだぜ‼︎」のサビを繰り返しながら、男性がハンカチを結んでくれた手でハンドルを握り、バイクで突っ走る。

私事になるが、社会人になってから専門学校のクラスメイト9人で集まり、カラオケに行ったことがあった。
あの時「ガッツだぜ‼︎」を歌い上げ、誰も微動だにしなかったのは、私が選曲を完全に間違ったのだとずっと思っていた。

だけど違う。
「ガッツだぜ‼︎」を歌うのは、ガッツのある人だけだ。
ただ、それだけのことだったのだ。

あと2つは、どちらも彼女とのエピソードだ。

付き合ってしばらく経った頃、喫茶店で情報番組を観ながら、彼女がこう言う。
「こういうの本当にくだらないよね」

だけど、その番組のフリップを作ったのは一緒にいるボクだった。

ボクは事あるごとに、彼女のある言葉で何とか進むことができていた。
だからこそ、彼女の放った言葉は容赦なく突き刺さる。

絶対的な存在だったからこそ、その言葉は正しく、ふたりの価値観を別つ。
ボクはそのくだらないモノを作らないと生活が立ち行かない。
明確な彼女との別れが描かれずとも、離れるのは必然だったと突きつけられるのだ。

その彼女は現在別の人と結婚しており、趣味趣向も昔と変わった様子がうかがえる。

ボクが送ってしまったフェイスブックの友達申請はある日承認される。
そこから、彼女の「ひどいね」が止まらない。

親指を下に向けたマークを、画面の向こうで連打していく彼女を想像して「変わらないな」と思うボク。
彼女が唯一「いいね!」を押してくれたのは、かつての彼女の夢を、ボクが仕事でこなした写真だった。

このシーンがたまらなく好きだ。
躊躇なくひどいねを押す彼女、だけど大切なことはちゃんと分かっている。
そんな彼女を忘れられず、懐かしむボク。

そして、ボクは彼女と多くの時間を過ごした場所で、本当の別れを告げる。
悲壮感のない、さらりとした風が吹き抜けるような終わり方だった。

まだ読み始めてからひと月も経たないが、最初に感じた確信めいた予感はすっかり「この人が書くものをもっと読みたい」へと変わった。

読んでいて心地のいい文章は、プロの作家でもなかなか出会えない。
説明と感情が先走りがちな私もこんな文章を書きたくて、1冊目のエッセイを読み終えた勢いで「燃え殻さんみたいな高みを目指したい」とぷんさんにDMを送ってしまった。

その後、音楽ライターの兵庫慎司さんが寄せた「ボクたちは〜」の解説を読み、「なんてDMを送ってしまったんだ」と心の中で悶絶した。

書評を書くほどの方ですら「同じ土俵に立っているつもりか」と自問自答しているのに、転職してレベル1ケタの人間にとって、首が痛くなるほど上を見ないといけない高みに、燃え殻さんはいる。

新しい感情に名前をつける人を、人はアーティストと呼ぶんだと思う。

『すべて忘れてしまうから』
P27より引用

少しでも近づきたいのなら、上記の記述のように自分だけの言葉を探す旅を続けなければいけない。

私も、きっと名前をつけられる。
この人の文章に共鳴したのなら、必ず。

燃え殻さんの描く世界にふれると、かつて経験した苦い記憶と、忘れてしまっていた大切な思い出が交互によみがえる。

出来事は決してよいことばかりではない。
だけど必ず、忘れたくない出来事もあるし、かつてあったのだと思い出させてくれる。

おかげで、忘れてしまいたい記憶も、忘れてしまった思い出も、残り火のようなささやかな光を見出せた。

出会えてよかった。
燃え殻さんと、勧めてくれたぷんさんに、感謝を込めて。


※ヘッダー画像もぷんさんからお借りしました。ありがとうございます!

いいなと思ったら応援しよう!

おおやまはじめ/手帳と暮らしのライター
サポートをいただけましたら、同額を他のユーザーさんへのサポートに充てます。

この記事が参加している募集