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無理して「人のために」をしなくてもいい
先日、こんなnoteを書いた。
私はつくづく、「自分のために」行動することで力を発揮するタイプだと再認識した。
同時に、偽りの大義名分が見えてきた。
「人を応援したい」だ。
全てが偽りだとは言わない。
親しい人は応援しているし、私が伝えたことが、誰かを後押しする=応援する形になれば、最高の結果だ。
問題なのは、それが動機として先立つと、嘘になってしまうことだ。
Kindle本を出すにあたり、本というのは人の悩みを解決したり、役立てもらうものであるべきだと書籍で学んだ。
とりわけ商業出版、実用書はそういった意味合いの本が自然と多くなる。
私は自身のKindle本に「手帳で日々の暮らしを照らし、応援する本」と手書きのキャッチコピーをつけた。
だが、私は人を応援したいからこの本を出したのではない。
最大の関心事であり、熱量を注ぐ手帳について考えたこと、アイデア、エピソードをまとめて、文章の究極の集合体「本」にしたかったからだ。
それが延長して、「人を応援したい自分」を偽っていた。
あれもこれも、結局は自分がやりたいからやっている、やってみただけなのに。
何が言いたいのか。
私の発信が結果的に人のためになるのは、思いがけないボーナスであり、喜ばしいことには違いない。
だが「人のために」が先行すると、途端に胸の内はもやがかかり、出力が下がるのだ。
人は大きく分けて2種類存在するという。
ひとつは、自分のために行動することで力を発揮する人。
もうひとつは、ほかの人に奉仕することで喜びを見出す人。
これまでの社会は後者を美徳として崇め、前者は場所によって「自分本位」だと排他されてきた。
だから前者の私は、幾度となく居心地の悪い思いをしてきた。
後者の人を見かけると、それができない自分に劣等感を抱いてきた。
しかし、どちらがいい・悪いではないのだ。
自分のために行動することで充実し、力がみなぎる人間は、無理して「人のために」を遂行しようとすると負荷がかかる。
川の流れに逆らうようなものだからだ。
実際問題、今の私はいくつかの破綻がきている。
太田胃散を飲んでも湧き上がってくる胸やけ。
ささいなことでの息子への苛立ち。
家の中でひとり声を上げて泣いた日もある。
そんなことになるくらいなら、ちっぽけな大義名分など棄ててしまえばいい。
もし私と同じように、無理して「人のために」何かをしている人がいたとしたら、そんなことはもうやめよう。
もっともっと、自分を喜ばせることに力を注ごう。
川は海に向かって流れる。
自分の中に広がる大海にイルカをジャンプさせ、潮を吹くクジラを優雅に泳がせて、船長になって帆船を出そう。
心が指し示すままに、舵を握って航路を行こう。
もし心の羅針盤が壊れていて、針の先が定まらないのならコーヒーでも飲もう。
そのときしたいことをしよう。
したくないことで、しなくてもいいことはやめよう。
誰のためでもなく、自分のために。
◇
元になった音声配信はこちら↓
※ヘッダー画像はみんなのフォトギャラリーからお借りしました。ありがとうございます。
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