誰がためにnoteを書くのか
「noteを書くのは自分のため」
そう言い切るのは、親交があり人生の先輩でもある千世(ちせ)さんである。
千世さんのnoteは、一言でいえば「骨太」。
歴史関係の記事を主としており、時折展覧会やエッセイ、方言にまつわる記事なども書かれている。
いずれも入念なリサーチや主観・客観的な意見を織り交ぜながら、読み手への配慮も欠かさない。
とりわけnoteに関する記事は一貫したスタンスを主張し、書き手として考えさせられる内容が多い。
そういった記事を書きながらも、千世さんは自身のnoteを「学習のまとめノート」と称し、自分のために書いているとおっしゃっている。
私はそれに対し、「半分くらいは自分のために書いている」とコメントしたのだが、千世さんからこのように返ってきた。
この返信に、ひとりダイニングテーブルで肘をついて「うーむ」と考え込んでしまった。
何のためにnoteを書いているかは明白だ。
子どもの頃から書くことで表現するのが好きで、言葉を選んだり、紡いでいくのが楽しいから。
好きでたまらなくて、伝えたいことがあるから。
ただ、独りよがりの文章を書きたくないと独学でライティングを学び、Webマガジン「テラス手帖」を始めてからは、ネットに出したからには誰かに読まれるという意識は持っていた。
(実際は思っているよりも斜め読みなどで、読まれていないのだろうけど)
そのため、コメントを送った際に「半分は自分のため」と書いた。
このアカウントは完全に自分のためだと自覚している。それが「半分」だ。
もう半分を肯定しなかったのは、Webマガジンは「こういう人に向けて書く」という構成を書いてから記事にしているからだ。
しかし、思い返してみるとWebマガジンもまた、自分が楽しくて書いている気がしてならない。
そうでなければ、ほぼ毎週手帳や文具のことを数千字で組み立て、写真を撮り下ろし、熱量を伴って書かないだろう。
投稿ボタンの先にあるものを最初から期待して書くことは、あまりない。
あるのは、ただ誰かの目にふれた時、きちんと心地よく伝わるようにする意識だけだ。
そう考えると、Webマガジンのほうは「めっちゃ美味しい新作カレーができたから、よければ食べていってね!」みたいな、おすそ分けくらいの精神で運営しているのかもしれない。
そうでなければ、ありふれたネタをなるべく避け、いかに奇をてらったネタや切り口を出そうかまで考えない。
定番メニューのローテーションに落ち着いてしまうだろう。
人とちょっと違うことをするのもまた、私の楽しみなのだ。
だから結局は、私も全部、「自分のために」書いている。
自分が面白い、好きと思えないnoteなど出せない。
ほかの人にも何らかのプラスの感情を持ってもらえたなら、おまけをもらえたようなものだ。
自分の中にあるものを深く掘っていくと、井戸の底で手を繋ぎ合える瞬間がくる、つまり共感につながると、佐藤友美さんの「本を出したい」に書かれてあった。
私もそんな体験をしているし、交流の多い千世さんはもっと実感しているのではないだろうか。
個人のアカウントはこれまで通り素直に、Webマガジンも一つひとつ丁寧に書いていこうと、おかげで気持ちを新たにできた。
なんだか、最近はもっとnoteを書きたい気分だ。
※ヘッダーはみんなのフォトギャラリーからお借りしました。ありがとうございます。