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見る。 という体験
時間が、鮮やかなオレンジ色に発光している。
対岸の工業地帯の上を、低い太陽がゆっくりと沈む。
もうすぐ一日の活動の終わりだ。
斜陽を遮って、逆光を浴びてたなびく雲の下で、いくつも立っているクレーンのシルエットは、囁き合う首長竜のようだ。
夕方の澄んだ空気は、遠くの山影も淡く臨ませる。
頬に氷のように冷たい大気があたっている。
クジラが仲間を呼ぶ声のような長いサイレンが幻聴のように届く。
届くはずのない油の匂いが、鼻の奥に思い出される。
消波ブロックを打つ海水が、足元で潮の香りを立てて、現実を引き戻す。
角膜と水晶体で進路を屈折された光が、網膜の視細胞を刺激する。
風景は、そこで電子信号に変換され、視神経を伝って後頭葉の視覚野で再構成された写像だ。
ヒトの眼とカメラの仕組みは、だいたい同じだ。
角膜と水晶体がレンズで、網膜は、いわば感光材だ。
ヒトの瞳孔のように、シャッターは光の量を調整する。
もちろん、いずれももっと複雑で精緻な仕組みでできている。
でも、カメラは、普通、人間のように、風景に何かを感じたりはしない。
純粋に光の情報処理をして写像を残している。
カメラの歴史を辿ると、カメラ・オブスクラ(暗箱)に行き当たる。
一方の壁に開けた小さな穴から真っ暗な内部に差し込んだ光は、対面の壁に外部の景色を逆さに映す。画家が遠近法を正確に描くための補助に使った素朴な道具だ。
但し、光が小さな針孔を通るだけでは、写像はぼんやりしている。
凸レンズの屈折を利用するようになって、写像は鮮明になった。
今では、カメラに入った光は、半導体デバイスで電気信号に変換され、高解像度のデジタル画像として情報処理されている。人間の目では見えない赤外線や紫外線さえ、光の波長として画像に処理することが可能だ。
超高速なシャッターは、ヒトの視覚では到底分解できない一瞬に世界を切り取ってみせる。
機能レベルでは、ヒトの視覚を超えた領域に達している面もある。
それでも、カメラ自体が、見ている、わけではない。
見ている、のは、撮影者だ。
被写体にむけて、撮影者が、シャッターを切っている。
撮影者が、構図を選び、シャッター速度を調整して、その一瞬を、見ようとしている。
— 本当に、ヒトは、見ている、のだろうか?
それとも、見せられている、のだろうか?
誰かに。
カメラと同じように、わたし達の視覚にも、撮影者がいてもおかしくはない気がしてくる。
あるいは、カメラも、実は、見ている、のだろうか?
モノにも霊が宿る、という考えがある。
丁寧に手入れされた愛用カメラは、撮影者と一緒に、見ている、のかもしれない。
ヒトの視覚も、仕組みは大方、カメラと同じだ。
見ている、のだろうか?
見せられている、のだろうか?
誰かに。
本当に、見ているのは、誰なんだろう?
―了―
※画像は、ソルトさんの「夕焼けとクレーン」を使わせて頂きました。ソルトさんの作品にはこころ動かされます。記事の更新はお休みされていますが、ときどき見返しさせて頂いています。文中の描写は写真から頂いた、勝手ながらのインスピレーションです。どうぞご寛容ください。書きたかった思いは、ヒトもモノも、分解して、分解して、いけば、最終的には、同じ小さな粒子になってしまうのだということならば、生命、はどこからくるの?という不思議です。一般的なテーマと思いますが、ずっとモヤモヤしています。以前、同じ気持ちで、少し物語ふうにして投稿させて頂いたこともあります。こちら ↓ も、お時間のある時、ご一読いただけたらうれしいです。