本好きになったきっかけ
既にどこかで書いた気もしますが、あらためて綴っておこうかと思います。
自他ともに認める本好きなのですが、なぜだか最近なかなか本が読めていません。
ネットニュースやブログやら、どうでもいいツイートなどは空気を吸うが如く自然に読み進めているのに、いざ本を手に取ろうという気持ちになかなかなれないというのが正直なところでしょうか。
読みたくてしょうがない、愛読書シリーズの新刊なんかが出ると、途端に読みたいスイッチが入るのですが、読み終わってしまうと、何やらまたオフモードに入ってしまうというか。
実際に、先週末も福岡に戻る際に、電子書籍で購入したIWGPシリーズの最新刊なんかは速攻読破してしまいましたが、その後はまた停滞中です。
部屋には沢山の未読本があるんです。
そして、こうしてパソコンやスマホを弄っているものの、ウェブ上にも購入したものの未読のままの電子書籍も大量にあるんです。
どれもこれも読みたいと思って買ったのものの手付かずのまま放置してしまっています。
分かっているんですよね。
多分、読書って筋トレとかと同じで習慣なんですよ。
間を空けずに、次から次へと手に取って目を通していくと、その流れが当たり前になるんです。
一度サボってしまった筋トレって、再開するのが億劫になるんですよね。
まあ、あとは前述したような些細な身近な文章に目移りしちゃうことで、読書欲が自動的にちょびっと満たされちゃってるなんてこともあるかもしれません。
思えば、この読書欲を強く持つようになったきっかけはというと、幼少期に遡ります。
幼稚園の年中でしたから、5歳くらいの時から父親の仕事でメキシコ暮らしが始まったわけですが、その時に母親が子ども部屋の本棚に福音館書店創作童話シリーズなどの本を100冊くらい取り揃えていてくれました。
幼稚園から帰宅後や、休みの日に家にいる時は、結構な頻度で本棚に手を伸ばしていたのを覚えています。
「ひとまねこざる」や先日ご逝去された中川李枝子さんの「いやいやえん」や「ぐりとぐら」など、今なおベストセラーである古くからある絵本には大体目を通していたと思います。
その後は、結構時間が空くのですが、中2の時に再び父親の仕事でアメリカ生活が始まりました。
この時は、今度は父親が岩波少年文庫をもう少し若い時に買い与えてくれたのがきっかけでした。
確か、最初は「西遊記」と「三国志」それから「水滸伝」だったかと思います。
荒唐無稽な大冒険と、翻訳版でしたから結構残酷な描写なんかもあって、いろんな感情を持って読書を楽しんでいたのを覚えています。
そこから「ドリトル先生」シリーズに進んで、読書の沼にハマったのだと思っています。(娘にも購入しましたが、今はもう井伏鱒二訳ではないのですよねぇ)
読むものがなくなると、今度は父親の本棚に手を出し始めます。
司馬遼太郎や池波正太郎など、中学生から読破していたというのは、結構早い方ではなかったのかなと思っています。
もっとも、ああいった人情の機微や侘び寂びをあの時どこまで理解していたのかは何とも言えませんけど。
そして、中学から高校卒業までのアメリカ生活の中で楽しみな作業だっのが、日本に一時帰国した時に買うための「欲しい本購入リスト」の作成でした。
昔の文庫本やノベルスなどの新刊本は、後ろの方に他の作家の新刊リストや同じ作家の本を紹介するページがついていたものです。
そうした少ない情報をもとに、好きな作家の他の本のタイトル情報を得て、どんどん更新するために必死になってワープロでリストを作成していました。
作家の名前をあいうえお順に並べて、シリーズものなどのタイトルも順番に並べたリストを眺めては悦に入っていました。
そして、いざ一時帰国するとリストを持って速攻で神田の本屋街に。
目当てのものが見つかるまで、どんどん本屋を回っていきます。
紙袋では本が抱え切れなくなったら、途中でスポーツショップに入ってボストンバッグを購入し、その中にどんどん本を詰め込んで、重さをものともせず嬉々として本屋を巡っていました。
神田で見つからないと、最後の砦は東京駅の八重洲ブックセンター。
先々、自分の勤める会社が八重洲ブックセンターのある街と同じ場所というのは感慨深いものがありました。
今はもうAmazonや電子書籍がありますから、ああいう動きをする本好きな帰国子女というのはいないのでしょうね。
でも、その分、一冊に対する思い入れというか大切に読むという気持ちは今よりも強かったかもしれません。
活字に囲まれて、ある程度満たされてしまっているからこそ、なかなか手に取って読もうとしなくなっているというのが今の状態なのかもしれませんね。
今日も読んでくださいまして、ありがとうございます。