すずめの戸締り ~若干の考察~
新海誠・監督の最新作。「すずめの戸締り」。解りにくく作られており、メッセージ性が沢山あるため、何度か観ないと気が付かない点も非常に多い作品であるため、気が付いた感想を若干ですが、少しずつ備忘録していきます。※この記事は、随時、更新します。
ダイジンが、鈴芽に伝えたかったこと
鈴芽は「うちの子になる?」とダイジンに言って大喜びさせたのに愛情を与えなかったのです。環さんは「うちの子になろ?」と孤児になった鈴芽を自己犠牲して養育してきたのにです。サダイジンが環さんに憑依して不満を言わせたのはこの因果だと思います。
だけどダイジンは 鈴芽を傷付けたサダイジンに激しくキレましてた。ダイジン、サダイジンという神様に感動しました。
ミミズという自然の闇と、ダイジンやサダイジンという神様
ミミズという自然の脅威(自然の闇)だけが描かれておらず、要石という人間を護る神様(自然の光)という、自然の神様の闇と光が、どちらも描かれていた点に感動しました。常世でサダイジンがミミズと闘うシーンは、人間が如何に神様に護られて生きているかが解り、サダイジンがカッコ良すぎて泣けました。私たち人間は、神様に護られていると思います。
脚が1本欠けた椅子は、鈴芽の心の傷
脚が1本欠けた椅子は、鈴芽の3.11の心的外傷だと新海誠•監督は、「新海誠本2」で述べています。 鈴芽が過去の自分に向き合って、自分で自分を救う話は、トラウマの向き合い方としては良いと思いました。しかし常世で幼い自分にこの椅子を渡して戸締りして、めでたし、めでたしになっていた点はPTSDで苦しむ人たちに誤解を与えるので残念でした。
PTSDについての表現は不満がありますが、私はこの作品は、「君の名は。」「天気の子」より好きです。深い考察が沢山できる作品になっているからです。まだ気が付いていない部分が沢山あるはずだなと感じています。
自分の成長と共に、新しい気づきを促してくれる作品として ★5を付けたい作品です。ただ、トラウマの扱いのみ当事者として不満が大きいです。
「閉じ師」は、シャーマン
災いをもたらす扉を閉める「閉じ師」である草太は、現世(うつしよ)と常世(とこよ)の間(あわい)を繋ぐシャーマンだと思います。「閉じ師」は血統だけなく、鈴芽もなれたのは、一度、死にかけて常世に迷い込んだからと草太の祖父が述べています。 つまり、心的外傷が深い人間は、シャーマンになれる素質をもつということだと思います。
3.11の時は、多くの被災者が「行ってきます」しか言えなかった日でした。作中でも多くの被災者の「行ってきます」「行ってらっしゃい」の朝の声が描かれています。でも、物語の最後は鈴芽が草太に 「おかえりなさい」で締めくくっている。 これも「戸締り」の1つだと思います。しかし、PTSDをめでたし、めでたし、にはして欲しくないです。実態とかけ離れているからです。
トラウマ・サバイバーからしたら違和感が大きい
3.11をストレートに扱う作品であるのに、震災トラウマについての病状がほとんど実態と乖離していて、トラウマ・サバイバーが観ると違和感の大きな作品でした。トラウマという簡単な言葉を使うことの弊害の結果でもある気がしています。PTSDが軽い病で現在に大きな影響がないと勘違いされている気がします。
私個人は新海誠・監督の 「3.11から鈴芽は、12年間、普通に生きてきた」という言葉に絶句しました。普通に生きれないのが、トラウマを抱えた人だからです。
震災がテーマなのだから、鈴芽や環がフラッシュバックする場面がもっと沢山あって普通かなと思います。または完全に解離して健忘しているか、が実態に近いです。 終盤のアクションシーンは、私は3.11のあの日に戻ったのだと勘違いしていましたが、監督の発言では、鈴芽の現在まで続く心象風景だったのですね・・。表現が乖離している気がします。
※続きは、まだ随時、更新します。
※〈虐待の後遺症〉の「複雑性PTSD」について、典型的な症例を精神医学的な観点からまとめた書籍です。精神科医の和田秀樹先生の監修・対談付き。ご興味があれば、読んでみて下さい。
※震災トラウマについては、以下の書籍があります。
※心の傷を癒すということ: 大災害と心のケア