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『我が家ルール』の縛り

子供の頃、我が家には『我が家ルール』たくさんあった。
「親がダメって言うから」「うちはできないから」という言葉を子供の頃に何度言ったかわからない。そんな時の悲しかったな、辛かったなぁという気持ちを書き出していこうと思う。

Tシャツはインが強制

小学生の時、Tシャツなど薄手のカットソーを着て学校に行く場合、ズボンにインをしなければならなかった。
最近は上着はズボンインが流行りだが、私の子供の頃はズボンにインしている人なんてなかなかいなかった。インしているとオタクファッションと見られる感じだった。
インしなければいけない理由としては、おそらくひらひらしているのが母が嫌だったからというのと、お腹が冷えるからとかそんな理由だと思う。
私は胃腸が本当に丈夫で小学生時代腹痛も下痢もほぼなったことがないのでお腹が冷えても大丈夫だったのだけど。健康を気にしてくれたのかもしれないけれど、服装にこだわりがあった私としては、ズボンにインするのがどうしても嫌で嫌でたまらず、家を出るとこっそりシャツは出していた。
ただ、たまに母がPTAなどで学校に来てることがあり、来てるとだいたい友達が教えてくれるのだけれど、もしばったり会ったときにズボンインしてなかったら、また家に帰ってお説教をくらうのだろうと、とてもヒヤヒヤしていた。

タンクトップの着用が絶対

小学校1、2年生の時、下着のにタンクトップを絶対に着用しなければいけなかった。母は自分が汗っかきで汗疹ができたりもするために、汗を吸収するため、下着を絶対に着せた。でもその当時体育の授業の時など、着替えの際、下着にタンクトップを着ている女子なんていなかった。(今みたいな可愛いキャミソールなんてない)着替える時いつも恥ずかしかったのを覚えている。
体育が終わると、タンクトップを着ないでそのままランドセルや机の中に放り込んでいた。

給食のおかわり禁止

小学校1、2年生のとき、学校給食をおかわりすることを、母親から禁止されていた。痩せていたわけでもないけれど、肥満になる程太っていたわけではない。おそらく、私の食べ物に対する異常な執着と、常にたくさん食べようとする行動を見て、ストッパーを外すとどれだけ食べるかわからないという親の恐怖があったのだと思う。
また、これは憶測だけれど、母は少し太り気味で、その当時痩せなければと思っていたので、その気持ちを私に投影して私の食事をコントロールしていたのではないかなと少し思っている。
母は夕食の量も私に対し、ストップをかけていた。うちの夕食は大皿料理で、無くならなければいくらでも食べれる状態であったが、私だけ「それ以上食べてはいけない」とストップがかかった。運動部に入っていて食べ盛りだった中学や高校時代のご飯のおかわりも私は禁止されていた。そして、兄にはなんの規制もされてはいなかった。
あと、我が家の朝食は、どらやき、豆大福、シュークリーム、菓子パン、ロールパン2個、8枚切りの食パンとコーヒーゼリーこんな感じだった。
母がわざわざ朝食を作ってくれたことはほぼない。記憶にない。
食べれていただけでもマシなのかもしれないけれど。
だから、小学校3年生で給食がおかわりが解禁になってからは、めちゃくちゃ食べた。ものすごい速さで食べて、おかわりして2人前くらい食べていた。クラスでも私は大食いで有名だった。それでも体重は痩せすぎに入るか入らないかくらいだった。
中学に入ってからは、思春期になっておかわりをしに行くのが恥ずかしくなり、おかわりができなくなってしまい、友達の家でおやつを食べることもできなくなり、慢性的にお腹が空いていた。
私は小5で過食症になったけれど(吐かないやつ)その要因として、長期にわたって食べたい気持ちを我慢し続けたことと、中学の時、給食がおかわりできなくなり、友達の家でおやつを食べるなどもできなくなり、食べれる機会が減ってしまったこともあると思う。
子供のころは本当に常にお腹が空いていた。食べさせてもらえてないわけではなかったけれど、食べ物に対する異常な執着と依存があったと思う。道に落ちた食べ物でも食べたかった。今考えても当時の食べ物への執着は異常だと思う。

就寝時間が8時

我が家は小5まで就寝時間が8時だった。小6で9時に伸びた。
TVが見られるわけではなかったので、特に問題がないと言えばなかったのだけど、周りに8時に寝ている子などいなかった。
なんで自分は8時に寝なければいけないのだろうかと思っていた。

自転車にバックミラーをつけなければいけない

小5の誕生日に自転車を買ってもらった。私はその当時流行っていた、紺にラメが入っている色の荷台が付いていない可愛い自転車を買ってもらうつもりだった。ところが、父がとても自転車が好きな人で、自分が自転車にこだわりがあるため、私の自転車もMIYATAという自転車メーカーのものを買うと言った。(比較的高級な自転車メーカー)
カタログを渡されたけれど、シティサイクルの選択肢などほとんどなく、しかも全て荷台がついていてデザインがダサかった。そして父はバックミラーをつけないことを認めなかった。あの、昔の自転車についていた棒が伸びていて先に四角いミラーがついているバックミラーである。
私のプレゼントの自転車へのテンションは下がった。下がったどころか、ダサい自転車に乗らざるを得なくなり、小中高とずっと恥ずかしくてしょうがなかった。
きっと軽くてものとしてはいい自転車だったのだとは思う。ミラーがあった方が安全なのもわかる。でも年頃だったんだ。あげたいものと欲しいもののミスマッチである。

お泊まり禁止

小学生女子はある年齢になると、お泊まり会やお休みの日のお出かけに誘われたりするようになる。私はとても行きたかったがそれに対して親はことごとくNOといった。学校で誘われるその手の誘いに何回「親がダメだって言うから」と言って断ったかわからない。母は母親同士の関係の煩わしさを回避したかったのだと思う。ただ、一回も泊まれなかったということではなく、母が仲のいいママ友の家に一度と、私が心理的に母親のことをはめて断れない状況にして無理やりお泊まりを強行したことが一度ある。その時は本当にすごい怒られた。
お泊まり会は私がそう言うの大好きなタイプであったため、すごく憧れた。大人になってからだと経験できない貴重な体験ができなかったなと思うと少し悲しい。


おもちゃの制約

誕生日とクリスマスのみ、祖母が私たちが欲しいおもちゃを買ってくれることになっていた。
けれど、ねだれるおもちゃにも親の制限がかかっていた。
まず、TVゲームは絶対にダメ。液晶の画面があるような携帯ゲームもダメだった。あとはTVアニメ関係のもの。TVアニが見れなくてもテクマクマヤコンとかサリーちゃんのステッキとかセーラームーンのロッドとか欲しかったけど、それも不可だった。この手のおもちゃは玩具屋さんで触ることも禁止されていた。ちなみにディズニーとか私は子供の頃見たことがない。(私の子供の頃は今ほどディズニーという感じでもなかった気がするけれど)
あと、電池を使うおもちゃ。昔おもちゃの掃除機や洗濯機が欲しくてしょうがなかったけれど買ってもらえなかったし、電池で動いたりおしゃべりしたりする系のおもちゃも不可だった。兄はトランスフォーマーのロボットとか、プラレール買ってもらってたけれど、なぜ私だけダメだったのだろう。
結局安全牌であるジェニーちゃん系やシルバニアを買ってもらうことが多かった(ジェニーちゃんは母が大好き、シルバニアも母が好きでシルバニアは私も好きだった)小6の時には欲しいものが思い浮かばなくて、誕生日プレゼントを買うお金で中学入学と同時に英語の教材を聞くために買ってもらえるラジカセにCD再生機能をつけて欲しいとお願いした。本当は当時はやっていた似顔絵が作れる電子手帳が欲しかった。電子手帳はおばあちゃんも親に一緒に交渉をしに行ってくれたけれど、ダメだった。
ちなみにこれらのものはお小遣いで購入することも禁じられていた。

最後に

私は、周りと自分が違うと言うことに神経質になっていたところがあったし、そのことにストレスを感じるタイプだったのだと思う。
子供のころは「よそはよそ、うちはうち」といわれ、私の希望は通らないことが多かった。
親は親なりに何か与えようとしていたのだと思うけれど、子供には子供の子供の社交があるし、子供の世界がある。大人考える良いものを与え続けて周りの子供とずれてしまうと、私のようにストレスを抱えてしまう場合もある。
また、うちの親は本当に、周りと自分の違いに無頓着な人たちだった。
特に父は周りからの影響を本当に受けない人だった。良い悪いではなく、そういう気質なのだと思う。ボロボロの穴の空いているエコバックを使っていても、ボロボロの靴を履いていても、服が汚れていても、汚くてもあまり気にしないのでだ。(本人気にしなさすぎて母がメンテナンスしている感じだった)
母も父ほどではないけれど、中高生の時に、女子とほとんど遊ばず、近所の男子とずっとバレーボールをして遊んでいたと言うのだから、変わっていると思う。母は『女子』という生き物を理解できないタイプなのだなと思っている。
親とあげたいと子供の欲しいのミスマッチで、親は子供の悩んでいる部分の世界を認知することが苦手だったのだと思う。


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