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【甲陽軍鑑】武田信玄の水害・台風対策

信玄堤


信玄堤は、甲府市の竜王町にある、釜無川と御勅使川の合流地点に築かれた堤防です。この堤防は戦国時代の名将、武田信玄によって1541年に着工され、20年かけて完成しました。信玄堤はその革新的な工法と規模の大きさから、信玄の土木技術の象徴として知られています。

信玄が用いた工法は当時としては非常に先進的でした。御勅使川は扇状地を自由に流れていましたが、信玄はその流れをまっすぐに固定しました。具体的には、川の主流を赤石にぶつけることで水勢を調整し、流れを制御しました。

また、「将棋頭」と呼ばれる石組みを築くことで水流を二分し、釜無川との合流地点では石組みを使って水勢を和らげました。これにより、川の流れを順調に保ちつつ、洪水の被害を抑えることができました。

信玄堤は、千八百メートル以上にわたる堅固な堤防で構成されており、その上には樹木が植えられています。この堤防の建設により、信玄は毎年の大水による住民の苦しみを軽減し、地域の防災対策に大きな影響を与えました。

信玄堤は、信玄の土木技術の粋を集めたものであり、今なおその構造と歴史的価値が評価されています。

写真は雨の日の信玄堤の様子です。
実際に足を運んで見ると
信玄堤の偉大さ心震えました。

水にまつわる伝説

甲陽軍鑑品第四には甲州は昔は湖であったと言う話が書いてあります。

「策諺さくがん和尚が申し上げるには、この法城寺は、甲州においては昔は湖であったと聞いています。上条地蔵菩薩のご誓願により、南の山を削って、一国の水がすべて富士川へ流れ込むようになり、甲州の国中が平地となったため、今のような状態になっています。それゆえに、上条地蔵と言われることもありますが、寺号は法城寺と申します。」 

「策諺さくがん和尚御座候此法城寺は甲州上古は湖なりと聞上条ぢぞうぼさつの御誓にて南の山をきりて一国の水悉とく富士川へ落つるにより甲州国中平地と成て今如㆑件なりさるに依て上条ぢぞうだうとは申せ共寺号をば法城寺と申す」

甲府に建立された法城寺は、国母地蔵尊を祀る寺院で、古くから信仰されてきました。この地蔵尊にまつわる「湖水伝説」では、かつて甲府盆地が湖であり、人々が農業に困っていたところ、地蔵菩薩が山を切り開いて水を流し込み、豊かな土地を生み出したとされています。この恩恵に感謝し、地蔵尊は「国母地蔵」と呼ばれ、信仰されるようになりました。この伝説は室町時代前期までには成立し、甲斐国内では秋の収穫時に稲穂を供える風習があったとされています。

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