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『形而上学』アリストテレス著 書評

<概要>

世界の原理とそのありようをどのような形で理解すればよいか、アリストテレスがプラトン含めた過去の説とその課題も紹介した上で自説を展開。

【上巻】世界の構成要素(質料&形相)とその動的姿(生成と消滅&可能態→現実態)について解説。

【下巻】「神学論(第十二巻)」が主要課題。これに加え「天体の運行」「数」「イデア」などの諸概念に関する、アリストテレスの存在論(目的論に基づく存在論)との関係性などの関しての解説。

<コメント>

アリストテレスのもっとも重要な著作と言われている「形而上学」。やっと読了。

私の場合、哲学書などの重要著作については、

①1回読んで、重要箇所にマーカーを引く(主に章単位)
②再読しつつマーカー箇所をデータベース化(表計算ソフトに入力)
③更にノートなどで図解化→表計算ソフトでデータベース化
④本ブログ等を使ってまとめつつ自分の考えを整理(レジュメ化)

することで「自分の頭に落とし込む」という作業をやっています。

このような人間の知的活動は「人間の本能だ」として、本書の冒頭にアリストテレスの有名な言葉が載っています。

全ての人間は生まれつき、知ることを欲する。

(本書第一巻第一章より)

知りたいから知る。アリストテレス風にいえば、全てに目的があって「なぜ勉強するのか」といえば「知りたいから」というしかない。

■形而上学とは?

形而上学という概念は、一般には任意の前提となる「神」のような、目には見えないが確実な真理(例えば「神の国」)に到達するような目的論的思考のことを言いますが、そして結果的に本書の主旨は「不動の動者」という任意の前提を究極的な原理として措定したので、まさに「形而上学」そのものではありますが、実際にはタイトルの由来は違うようです。

形而上学とはギリシア語で「メタ・ピュジカ」となり「メタ=後の」と「ピュジカ=自然学」の合成語。日本語で直訳すると「自然学のあとに言及されるもの」となります。

自然学(=自然科学)の後にくる学問は、アリストテレス的には「自然は動的存在だがなぜ動くのか?その原因と目的は何か」を探求する学問が「自然学の後にくるべき学問」ということで、それは「第一の学問=神学」となるわけです。

したがって本来のタイトルは本来「第一哲学=神学」とするのが相応しいとのこと(『アリストテレス』今道友信著282頁参照)

そして「第一の哲学」を通読した結果、「アリストテレスの世界像」は、下図のようになりました。

不動の動者」という「神学の領域」は最高善という善悪に関わる「価値の領域」。つまり価値の領域が、自然学(=自然科学)の世界、つまり「事実の世界」を支配しているという構図がポイント。

■万物の原理とは?

ほとんどの古代社会(我々日本列島住民含む)では「万物の原理」「世界の始まり」をどのように理解するか?について「神」や「神話」などの物語を創造して説明。

一方、古代ギリシアにおいては、異文化交流が盛んだったため、「神」や「神話」を使うと「外国人と話が合わない」という理由から、できるだけ「神などの神話ではなく、理屈だけによって世界を説明してみよう」と試みたのが古代ギリシアにおける哲学(というか古代ギリシアでは学問は全て哲学だった)の始まりと言われています。

アリストテレスは、これら過去の哲学や同時代に生きる哲学の課題「万物の原理(専門的には認識論)」に関する仮説について、いつものように網羅的に整理し、自分の論を展開したのが本書『形而上学』。

簡単に説明すると、

万物(実体)は、始動因によって「生成」と「消滅」を繰り返す動的な存在であり、原料(質料)を使い、必ずなんらかの目的因をともなって「形相」という設計図によって作られるものである。これらを動かしているのは不動の動者たるである。

例えば料理(=実体)に例えると、

食材(=質料)を使って料理人(=始動因)が、栄養があって美味しくなる(目的因)レシピ(=形相)を見ながら調理する。我々が美味しくいただくと、胃腸(=始動因)がそれぞれの栄養素(=質料)に分解して身体の一部に「転化」していく。これらを動かしているのは「幸せに健康に生きようとする善きものへと向かう本能(=不動の動者)」である。

という感じです。ちなみに人間の場合は、

親(=始動因)が、健康で幸せになるよう(=目的因)、子供(=実体)を産み、栄養(=質料)を与えて育て、大人の心(=形相)と身体(質料)をもった成人(=実体)となる。

翻訳では「心」は「霊魂」と訳されていますが、これは今風にいえば「心(あるいは精神)」としたほうがしっくりくると思います。

■『形而上学』における神の存在

古代ギリシアにおいて、できるだけ誰でも了解できるよう、理屈だけで万物の原理を説明しようと試みているものの、学問の総元締めたるアリストテレスといえども最終的には万物が運動するその原因を「不動の動者」たる「神」である、として「神の存在」を否定することはしていません。

私なりに解釈すれば「神」は「最高善」でもあるので「世界は最高善へと向かう運動である」とすれば、現代人の我々でもなんとなく違和感なく、すんなりと腑に落ちるのではないでしょうか。

ちなみにこの「不動の動者」たる神というアリストテレスの考え方は、ヨーロッパ中世のキリスト教の神と同一化していく(ドメニコ会のトマス・アクイナス『神学大全』神の存在証明)

平原卓先生の早稲田大学EC講義より(2020年1月23日)

『ニコマコス倫理学』や『政治学』でも紹介した通り、アリストテレスは目的論者なので『形而上学』においてもその考え方は一貫しています。先に「現実態」と呼ばれる「あるべき姿」があり、そのあるべき姿を目指して「可能態」が「現実態」に向かって万物が変容していく、というのがアリストテレスの世界像。なので完全な状態が神という最高善(神=完全現実態)。

本書において、その目的の究極原因は何かといえば「不動の動者」たる神の最高善という価値で、世界のありようを、「水」だとか「大気」だとかの「事実の世界」として捉えるのではなく、善きものへ向かおうとする「価値の世界」を上位として捉えようとしている点が、彼の先生たるプラトンの「善のイデア論」を継承しているような感じはします。

「善のイデア」とは、プラトンによれば、それぞれが最善であるように秩序づける環境を提供しているイデア。だから善のイデアは「イデアの中のイデア」。

このように、アリストテレスの「不動の動者=神」は、プラトンの「善のイデア」に「運動」の概念を与え、「不動の動者」として神格化したような概念(善のイデアについては以下参照)。

元々アリストテレスは『ニコマコス倫理学』で「人間にとっての最高善は幸福」といっているので、『形而上学』もよりわかりやすく解釈すれば

「それぞれのあるべき姿(=最高善)に向かって万物が変化し続けているのがこの世界のありようだ」

ということなのでしょう(幸福論の詳細は以下参照)。


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