「本は古典だけを読めば良い」に、異議あり。
これまで、読書法に関する書籍を数多く読んできました。
その中でよく見掛けるのが、「新刊書に対するディス」です。
山口周さんは私の尊敬する方なので大変恐縮なのですが、私はこの
「古典的名著こそが正義」
という考え方には懐疑的です。
今日はそのあたりの話を書いていきます。
新刊書は古典の「焼き直し」なのか?
「古典」というのは、昔から皆に愛読され続けている名著を指します。
ビジネス書であれば『人を動かす』『イノベーションのジレンマ』『7つの習慣』などでしょう。
また『武士道』『論語と算盤』は私も読んでみましたが、これらも古典的名著に入ると思います。
どちらも素晴らしい作品でした。
古典はどれも内容がとっつきにくそうなのと、多くが古い本であるため、得られるものも古臭いのではないかと敬遠されることが多いと思います。
だから誰も彼もが、その逆をいく本、すなわち新刊書を買い求め、その購買行動によりさまざまなベストセラーが生まれるわけです。
先述の山口周さんは、「ベストセラーは一冊たりとも読む必要はない」と断じています。
その理由は「そもそも内容は古典の焼き直しだし、ベストセラーなら皆が読んでいるので差別化にすらならない」というものです。
黒刀で一刀両断。さすが我らの山口先輩です。
では、ほんとうに「新刊書は古典の焼き直し」なのでしょうか?
私の答えは「YES」です。
いやイエスなんかい。
じゃあこの記事、ここで終わりじゃん。
とはなりません。
私の主張は「古典の焼き直し "だからこそ" 価値がある」というものです。
「抽象度が違う」ということが重要
なぜ新刊書には新刊書の価値があると考えるのか?
それは古典とは「抽象度が違う」からです。
私は、人にはそれぞれの「読書体力」があると考えています。
これは例えば、人によって「できるスポーツ」が異なるのと同様に、読書にも人によって「読める本」が異なるということです。
私はフルマラソンを完走することが出来ません。
それどころか10kmも正直、辛いです。
でも、5kmくらいなら(多分)走れます。
一方で、世の中にはフルマラソンを走れる人がいます。
逆に5kmも走れない人もいるでしょう。
同じように、古典を難なく読める人もいれば、分かりやすく噛み砕いてあれば読める人、マンガになっていれば読める人もいるんです。
一般に古典というものは「このジャンルはこれさえ読めば問題ない」というような、人々の厳しい目にも、風雪にも耐えた名著のことを言います。
「これさえ読めば問題ない」は、イコール「これが本質である」ということです。
本質ってめっちゃ抽象的なんですよ。
読んでいて自分ごとになりにくいんです。
皆に何かしら刺さるように書いてあるからこそ、いまの私には刺さらない。
それをそれぞれの人に刺さるように書いたのが「焼き直し」なんです。
私に向けて焼き直してある古典が、私には一番良い本だ、ということです。
文章を鍛えたいとき、誰もが清水幾太郎・著『論文の書き方』を読まなくてはならないわけではなく、
それが古典でなかったとしても、いしかわゆきさんの『書く習慣』に助けられ、救われる人は大勢いるのです。
結局は古典に帰結する
では古典に価値がないのかと問われれば、当然そんなことはありません。
古典がそのジャンルのトップに君臨していることは疑うべくもないのです。
新刊書が良いと言ったり、古典が良いと言ったり。
こいつは結局なにが言いたいのか?という感じでしょうか。
私は「新刊書を読んでいく延長線上に、古典がある」と考えています。
マラソンが苦手な人が、毎日走り続けていたら、いつの間にかフルマラソンを楽しめるようになっているように、
毎日読書を続けていたら、いつの間にか古典を難なく読めるようになっていくということです。
そして、古典には「本質」が書かれていますから、最終的にはそれを読んで答え合わせをすることになるのです。
私には、「いつか読んでやるぞ!」と密かな想いを抱いている古典が何冊もあります。
まとめ
今回は「本は古典だけを読めば良い」という意見に対して、異議を挟んでみました。
まとめますと、
・新刊書は確かに「古典の焼き直し」である。
・古典の抽象度を下げ、大衆向けに噛み砕いている新刊書にも価値がある。
・新刊書を読むことで身についた「読書体力」は古典に帰結する。
です。
今年は古典的名著を5冊読破するという目標を立てています。
具体的に何を読もうと考えているかは、ぜひこちらの記事を。
読書によって得られた知見を交えながら日記を書いています。
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