一貫性というのは想像力を欠いた人間の最後の拠り所である
振り返ると普通の学校に進学して普通のサラリーマンになっていた。
非凡とは無縁な人生を歩んできた。
何かに特化してそれを武器に戦える人を羨んだ時間はかなりの割合を占めている。
自己紹介で「特技」を書く時、必ず一度ペンが止まる。
何かに特化した強みがない。
胸を張れない自分が悔しい。
でもその塩梅を含めてこその自分だと胸を張って言えるだけ大人にはなれている。
タイトルはアイルランドの作家オスカー・ワイルドの有名な言葉。
どう捉えるかはきっと受け手の想像力に依存する。
小説で一番好きなのは、自分の頭で景色がイメージできる事。
他人の価値観や人生を覗き込む興奮もさることながら、活字と脳内を透明な直線で繋げられる高揚感は独自の快楽をもたらしてくれる。
例えば伊坂幸太郎「重力ピエロ」の冒頭。
「春が二階から落ちてきた」という表現。
僕の脳内では活字の奥に築30年の低層アパートが突如現れた。
外壁は薄水色で手すりは白く所々剥げている。
そしてピンクの葉が舞う肌寒さが残る午前中。
今までの自分が見てきた世界をもとに勝手に映画が作られるようなこの感覚に勝るものは無い気がしている。
想像力を豊かにする事を大切にしてきたからこそだけれど、これを武器とは言えないかもしれないけれど、自分を肯定するには十分過ぎる。
読書に限らず人間関係やあるいはこの世界の捉え方すらも想像性をもってすれば、今とは異なる視点に立ち返れる。
けれども僕は一貫性を否定したい訳ではない。
すぐに対立構造を作るクセは人類の最も悪い点だと思っている。
ただ想像力を欠いた場合、それとは対照的に固定概念に縛り付けられてしまうというトレードオフは存在する。
とめどない思考の過程で一貫性が根拠の避難所になった時、その人の世界が閉ざされてしまう危険性を大いに孕んでいる
「一貫性」と「狭隘の視野」を同一視してはいけない。
過去の経験から自分が的確だと思ってた方法が、客観的には不十分の塊だった、なんてよくある話。
僕らの時間を考慮したとしても、あまりにも世界は広すぎた。
生きるという行為は世界を拡張し続ける事だ。
ここで一つの矛盾として、思うに幸福とはどれだけ無駄な時間を過ごせたかに比例する。
暴力的に言ってしまえば想像するって、何も行動しないから無駄とも言える。
ただその無駄によって救われる局面が幾つも存在すると明言できないのは僕らの弱さなんだろうな。
「事実というものは存在しない。存在するのは解釈だけである」
ニーチェが唱えた様に、事実の正体は大衆の解釈であり、つまり個々の想像の結末でしかない。
主観の反対は客観ではない、
主観の集合が客観になる。
例えば愛など、分からなければ優しい想像力で補えば良い。
これが唯一、
思考を与えられた僕らの宿命なんだ。
それでは良い夜を
おやすみなさい
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