永遠に見えるものに苦しんでばかりだね

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  • 報復性夜更かし

    日々感じた感覚をできる限り言語化、烏滸がましいけどどうか誰かを救えますように。 夜更かしのお供にどうぞ。

  • 生活

    日々を綴る雑文

  • 有閑遊戯

    好奇心の赴くままに、ありのままに。 "有閑"という名の時間の中でやってみた"遊戯"をゆるーく書いてく。

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言葉が作り上げたもの

最近の話。 週に50~60時間ずっと部屋に引きこもって、無機質な物質を眺めたり叩いたりしてる。あ、仕事ね。 そこには朝も昼も夜も天気も季節も関係なくて、世界から隔離されたただの空洞しかない。 だから昼休みには少しの散歩をする事にした。 どこまでいっても人間らしい生活を続けていきたい。 多分フルリモートの働き方が向いてない。 その流れから土日も散歩はしてて、今日は散歩ついでに寄ったファミマでBRUTUS最新号「一行だけで。」を脳死で買った。 単純にタイトルにやられてしま

    • 遠回りと朝の海

      不眠症になってから朝への憧れは止まらない。 今朝は珍しく睡眠剤をうまく使いこなす事で早起きに成功した。 夜に思い出す人よりも、朝に思い浮かぶ人と生きていくのが正しいとさえ思えてきた。 ここ数年はいわゆる停滞が退屈な日常をさらに加速させていて、気付けばもう2024年も終わりかけている。 こんな時は積み上げられた悩みも思考も全部投げ出して仕舞えばいい。 何となく過去に書いた記事を読み返してみた。 どれも同じ事をずっと繰り返し主張している事が多かった。 ある意味、芯はブ

      • 瞬間にしか宿らない永遠を幸せと呼ぶ

        今年の秋は映画が豊作だ。 映画も好きだけどそれ以上に映画館が好き。 スクリーンの中にいる間は、夢と現実の狭間を悠然と彷徨っているようで、まるでノアの方舟に乗った気分になる。 そうやって僕は毎週末せっせと映画館に足を運び続けている。 「めくらやなぎと眠る女」 「HAPPY END」 「SUPER HAPPY FOREVER」 最近はこの三作を観た。 HAPPYに対して終わりと永遠が対になっているけれど、とりあえず幸せにはなりたいみたい。 たぶん幸せってなるものじゃな

        • 思慮深さを素因数分解したら秋だった

          ※ヘッダーは昨年の紅葉 昨日、用事があって久々に三軒茶屋へ行った。 秋のムードが街を包む中、世田谷線の隅っこで蝉が寂しそうに鳴いていた。 たぶん泣いていた。 生命の力強さには魂を揺さぶる"何か"がある。 その何かをいつの日か言語化出来たらいいな。 電車の冷房が適温という人間に会ったことがない。 寒いと暑いの二択しかない世界は逆に稀だ。 万人にとっての最善が如何に難しいか、毎年この秋の入り口に再認識させられる。 そして季節は、冷房の効き過ぎた特急電車のように、誰の意

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        記事

          意味や成長への信仰を捨てると世界のねじは回り始める

          ここ数ヶ月、村上春樹を読み倒している。 勘の良い人は「ねじを巻く」という単語ですぐ分かってしまうね。 登場人物にやたら女性が多かったり、ロマンチストを全面的に肯定しきった物言いを除いて、世界や感覚の表現能力の秀でた文章に目から鱗が落ちる連続だ。 世界のねじを巻くのは一体誰なのか。 少なくとも僕は自分の手でねじを巻かないといけない気がした。 そんな折、相も変わらず脳内は正解の無い問いを勝手に作り出してはまた放棄する。人生は際限の無い自問自答とも言える。 意味への信仰例

          意味や成長への信仰を捨てると世界のねじは回り始める

          期待して裏切られてそうやってすべからく生活は続くべき

          生活という曲はこの世にいくつも溢れている。 生活という形は人の数だけ溢れている。 「生活」「暮らし」 英語では"life"の一文字で済まされるのに、日本人は感性が豊かなのか煩雑なのかはたまたただの面倒くさがりなのか。 一般的には衣食住を纏って、それを一括りにして「生活」と呼ぶ。 けれどここで一般的な話をしたって仕方が無い。 最近、僕にとっての生活について考える時間があからさまに増えた。 生活の定義は幸せの定義に直結する。 この心臓が止まらない限り、否応なく生活

          期待して裏切られてそうやってすべからく生活は続くべき

          深い諦めに支えられている

          今必要な事は、何もしないでいられる能力だと思う。 スマホを触ったり音楽を聴いたり、求められてないにも関わらず僕らはいつも多忙そうだ。 日々、"何かさせられている感覚"から逃れられない。 それは心に余裕がないからだよって言われるかもしれないけど、だとすれば大多数の人々が心を病んでいる事なのだろうか。 年齢を重ねるにつれて、何かを成し遂げる事がありたい姿なのかという問いが風船のように膨らみ続けている。 成功ばかりが目について、誰でもそこに近付ける風潮が顕著になっている。

          深い諦めに支えられている

          表層的なものだけ掬い取って大切な事は何一つわからない

          情報に擬態した嘘は日常に山積してる。 これを問題視しない事自体が問題であると、警鐘を鳴らし続けたい。 早速、話は逸れるけど2023年に公開された「怪物」(監督:是枝裕和)の話を少しだけ。 映画の概要としては、それぞれ立場の異なる人間の食い違う主張が物語を拡張していく。 各人物の主観パートが徐々に重なっていくにつれて、同じ事象を見ているはずなのにその正しい色が文字通り不透明に感じる錯覚に陥ってしまう。 そこで事実は結局、多数決で勝った主観でしかないという主張が汲み取れ

          表層的なものだけ掬い取って大切な事は何一つわからない

          一貫性というのは想像力を欠いた人間の最後の拠り所である

          振り返ると普通の学校に進学して普通のサラリーマンになっていた。 非凡とは無縁な人生を歩んできた。 何かに特化してそれを武器に戦える人を羨んだ時間はかなりの割合を占めている。 自己紹介で「特技」を書く時、必ず一度ペンが止まる。 何かに特化した強みがない。 胸を張れない自分が悔しい。 でもその塩梅を含めてこその自分だと胸を張って言えるだけ大人にはなれている。 タイトルはアイルランドの作家オスカー・ワイルドの有名な言葉。 どう捉えるかはきっと受け手の想像力に依存する。

          一貫性というのは想像力を欠いた人間の最後の拠り所である

          本当の美は、未完成なものを完成させようとする心の動きにある

          結果論と過程論、どちらを重視するか。 仕事に限っては結果論として、ある程度の成果物や数字が価値の尺度となる。 けれど人生は仕事じゃない。 生きる事は何かを完成させることが目的じゃない。 他者と人生を歩む場合、残念ながらお互いの事を100%理解し合うのは絶対に無理だ。 同じ人間は存在しない、してはいけない。 理解し合えないのに社会的な生き物だなんて、随分と酷な矛盾を押し付けられたものだと憂いていた青い十代を過ごした。 正直、恋と愛とか全く分からない。 区別じゃなく

          本当の美は、未完成なものを完成させようとする心の動きにある

          自意識は過剰であれ

          発信するという事は誰かを傷付ける行為だ。 殊に僕は"相手に何かを押し付ける行為"がひどく嫌いだ。 それは押し付けられて嫌だった記憶や、されてる人を見て落ち込んだ経験が沢山あるから。 「自分がされて嫌な事をしない」 バカみたいに簡潔なロジックであると同時にあまりにも自己中心的な展開に、本当はどうしたら良いか分からなくなる時がある。 けれど想像の範囲内で相手を傷つけてしまうと理解できていたならば、掲げた武器はその場でおろすべきだ。 「であれ」という言葉は、全てを諦めた

          自意識は過剰であれ

          与えられたもので勝負するしかない

          トレンドの波に乗って新しい音楽がどんどん出てくる。 仲の良い友人がここ数年ずっと言ってる。 「最近の音楽で良いと思えるものが何もない。結局過去の自分のお気に入りばかり繰り返し擦って、最終的にそれに満足しきってる。」 変化に弱くなる、ある種これが"老い"なのかもしれない。 日々、音楽に限らず処理しきれない膨大な情報が押し寄せてくる。 むしろこちらから取りに行ってることの方が多いかもしれない。 取捨選択する能力がより一層必要な時代がこの令和だと痛感してる。 先日29

          与えられたもので勝負するしかない

          寂しかったから世界が色付いた

          完璧に満たされた人間って怖いなと思う。 完璧な人間は存在しないけれど、それでも満足してる人は一定数存在する。 "足るを知る" 掴みたい思考と追い付けない自分がつまらなそうに手を繋いでいる、ずっとそんな感覚が影のように付きまとってくる。 大切な友人やパートナー、愛する家族がいても寂しさを感じる人は多い。 なぜだろうと自問自答して悩む事も多いだろうけど、それは杞憂だと漠然と伝えていきたい。 ボクは「孤独」と「寂しさ」は全く別物だと思っている。 何故なら孤独は前提だから

          寂しかったから世界が色付いた

          余白の哲が支える

          例えば好きだったバンドは解散するし、初恋の人は結婚してる。 可能性の話を出し続けても、結果は常に残酷であり運命と片付けてしまって良かったりもする。 たぶんこの記事は意味不明だと思うし、独りよがりの乱文になるね、ご承知おきを。 大学生の頃は社会に反抗する行為自体に酔いしれて、自分を認めない社会全体がおかしいって信じてやまなかった。 全身にyohjiyamamotoを纏って全力で中指立てる時期が確かにあった。 捉えきれなかった深淵からほとばしるそれは、まさに僕にとっての「黒

          余白の哲が支える

          孤独は前提でしょう

          多めに見積もっても伝えてるのは本音の3割ほど。 友達には不誠実だと言われた。 信用してない訳じゃなくて、全員に対してそうなんだ。 結局これは自分自身の問題。 外部とのやり取りについて、自分を他人に押し出す事に怯え続けてる。受け入れられない事への防御壁があまりにも鉄壁すぎる。 ありたい姿になれない日々に葛藤しつつ、けれども本音は全てここに置いてる。 いつの日かこのnoteに書いた内容を誰かに話せたら良いな、そんな願いを込めて。 ちなみに「自己肯定感を上げれば良い」と

          孤独は前提でしょう

          不幸だって豊かな味がする

          こんばんは。 世間的にはGW後半戦、終わりゆく連休に憂鬱が膜を張っているような感覚の今晩この頃。 "「結局それは恵まれているんだよ」の一言で片付けたくない" このタイトルに対して幾ばくかの遣る瀬無さを覚えつつキーボードを叩いている。 まず前提として不幸の概念は自分の想像の範疇を超えられない。 だから全てに対して「主観的にしか測れないからもっと視野を広げようよ」なんて言うつもりは毛頭ない。 会話のキャッチボールとしては粗雑も甚だしい。 けれど悲しい事に人の苦悩の大

          不幸だって豊かな味がする