本当の美は、未完成なものを完成させようとする心の動きにある
結果論と過程論、どちらを重視するか。
仕事に限っては結果論として、ある程度の成果物や数字が価値の尺度となる。
けれど人生は仕事じゃない。
生きる事は何かを完成させることが目的じゃない。
他者と人生を歩む場合、残念ながらお互いの事を100%理解し合うのは絶対に無理だ。
同じ人間は存在しない、してはいけない。
理解し合えないのに社会的な生き物だなんて、随分と酷な矛盾を押し付けられたものだと憂いていた青い十代を過ごした。
正直、恋と愛とか全く分からない。
区別じゃなくて本質そのものの輪郭すらぼやけてる。
愛の美しさとは、お互いの欠点を暴き合いながら最期まで理解しようと努める事
現時点の僕の限界はここまで。
未完成に対して働きかける行為に焦点を当てた時、自ずと見えたものもあった。
「完成」について。
完成品には入り込む余地が無く、他者を招かざる威圧感がある。
完成しきったものは無機質だ。
そこに再び命を吹き込む事は難しい。
ただし目指すべきゴールではある。
真面目で理想が高い人ほど、砂上の楼閣の如く完成は徐々に遠ざかっていく。
完成に対する価値観が問われる場面は、ありとあらゆる場所に潜んでいる。
「これでいいのか」という自問自答は日常的で、生きてるという証拠でもある。
一方、「未完成」について。
完成は無価値とされるなら、未完成には価値がある。ではない。
未完成を意図的に未完成にさせ続ける事は、きっと怠惰で傲慢なんだと思う。
よく未完成なものにこそ意味があるとか囁かれるけど、そんなのは陰謀論に過ぎないと個人的に思ってる
だからこそ未完成なものを完成させようとする心の動きにある。
そして最後に「本当の美は、未完成なものを完成させようとする心の動きにある」について。
例えば夏にむけて向日葵の種を植える。
梅雨を乗り越えて初夏の日差しに讃えられるように黄色が溢れる。
瞳に映る黄色に歓喜すると同時に、きっとその過程をも愛おしく感じるだろう。
陽に照らしつつ時には水をやり、雨嵐の夜も必死に耐え抜く。
ついには花を咲かせやがては萎むが、次の季節には種から新芽が生まれ、諸行無常の鐘が鳴る。
本来その偶然訪れる瞬間に対して、一喜一憂する事に大きな意味と価値がある。
だからこそ完成させようとする過程に意義を見出す。
完成できなければ意味はないかもしれない
けれどそれ相応の明確な意義は存在する事をここに残したい
永遠に未完成な人生にとって、
過程に恋して結果を愛せたら果たしてそれが正解と呼べたのだろうか。
「できた事」より「しようとする行為」に宿る美学は、これからも僕の中で生き続ける。
それでは良い夜を
おやすみなさい
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