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【企画SS#百人百色】それはきっと彼の
三羽さまの企画参加作品です。
本作のみでお読みいただけますが、同じく企画参加作である↓の後日譚になりますので、よろしければこちらからどうぞ。
(前日譚)
【お題】百人一首No7:
あまの原ふりさけ見ればかすがなる三笠の山にいでし月かも
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(本作)
【お題】百人一首No57:
めぐりあひて見しやそれともわかぬまに雲隠れにし夜はの月かな
(新古今集 雑 1499)紫式部
(簡約)本当にあなたなのはわからなかった。
月が雲に隠れるように、
その顔はすぐに見えなくなってしまったから。
自分の見たものは、願望が見せた幻かもしれない。
それでも、たしかにあの人の心だと信じたい。
「あれ、課長は?」
上司の所在を問うと、後輩はPCに目を向けたまま答えた。
「書庫のほうで見かけましたよ」
書庫?どうしてそんなところに。
普段使う書類は執務室内に置いてあるし、契約書等の重要書類は別途専用の保管庫がある。書庫にあるのは古いが重要性と使用頻度が低い、いわば「使わないが捨てられない」ものばかりだ。
用件が不明な以上いつ戻るかわからない。様子を見に行くことにする。
書庫の扉は開け放たれていた。使用中の事故防止ルールだ。中にいるのは上司だろうか。入口から覗いてみる。
奥の棚の前で、その人は分厚いファイルを開いていた。
先日の光景を思い出す。長年の取引先との、今後の取引条件の交渉。交渉とは名ばかりの、実質的にはこちらの条件に応じるか取引を中止するかの選択を迫るものだった。
上司が見ているのはその取引先の資料だ。
ゆっくりと資料をめくる手。その手がスーツの胸元に伸びる。資料に目を向けたまま、無意識のように、長い指がそっと、胸ポケットに挿したボールペンにふれる。
あの日も上司はあのペンを挿していた。それは取引先のかつての主力商品で、当社との取引もこの商品から始まったと聞いた。
今はもう廃盤になった、美しい商品。それにふれる上司の仕草に、なぜ、という思いが募る。
あなたが始めた取引。新人の頃のあなたが獲得してきた先。かつては当部の取扱い商品の三割以上を占めた先。取引量が減り、当社にとっての重要性が変わっても、手を取り合って進んできた時間を、あなたは覚えているはずじゃないか。その先を守るために、なぜもっと会社と闘ってくれなかった。「切れ」だなんて言葉を、あなたの口からは聞きたくなかった。
込み上げるそんな言葉を呑みくだす。会社の判断が間違いではないことを、これまでの取引が続けられないことを、俺だって理解している。
ただ、一緒に怒ってほしかっただけだ。悔しがってほしかっただけだ。取引先を守れない、現場担当者の無力さを。けれど上司はどこまでも冷静に会社に従う。その態度に俺は激しく反発した。担当を外すと言われるほどに。
上司は俺を甘いと言う。いずれこの席に座るおまえがそんなことでどうする、という言葉に、俺は一層反発する。
あなたは違うのか。あの日、必殺技だと先方に言わせたあの言葉は揺さぶりでもなんでもなく、あなたの本心だったのでは?だってあなたから「お願い」という言葉を初めて聞いた。俺が知っているあなたはいつだって淡々と取引のメリットを述べ、相手に選択させていた。その交渉に、お願いなんて不要だった。
かつて、あなたがそんな拙い言葉で積み重ねてきた取引。それを受け入れ続けた先。こんな幕引きで、あなたは本当にいいのか。
社長、どうかお願いです。
そう言ったあなたの顔は静かだった。俺がどんなに凝視しても眉ひとつ動かなかった。社長はそんなあなたを微笑んで見ていた。頼もしそうに、嬉しそうに、…寂しそうに。
あなたの顔は静かだった。それでも。
あの時、社長がすまないと言った時、あなたはたしかに、あなたの伏せた瞳はたしかに…
ぱたん、と小さな音がして我に返る。上司がファイルを閉じたのだ。棚に戻しながら、長い指が背表紙の社名をなぞる。その指が握り込まれて拳になる。その拳に額がふれる。眉間に深い皺が刻まれて、伏せた瞳が揺れる。薄い唇を白くなるほど噛みしめている。
あの時。社長がすまないと言った時。我々の取引が事実上終了したあの時も、ほんの一瞬、この人はこんな顔をした。瞬きでかき消えるほどの、見間違いだったかと思うほどの、ほんの一瞬。
胸が詰まる。なぜ、と。なぜ教えてくれない。なぜその苦悩をともに担わせてくれない。俺が同じように苦悩を呑み込めるようになれば、その心は開くのか。部下として、真にあなたを支えられるようになるのだろうか。
込み上げる言葉を呑みくだす。そうだとしても、その時はまだ遥かに遠い。俺の手は、心は、まだこの人には届かない。
だから今はただ、淡々と、粛々と、部下として求められることを。
「失礼します。課長、いらっしゃいますか」
扉口から声をかける。振り向いた上司の顔に、もう苦悩は見えない。さっきのは見間違いかと思うほど。その心が垣間見えたと思ったのは夢かのように、その顔はあまりにも静かだ。
「なんだ」
「部長が、訪問前に再度打ち合わせをしたいと」
淡々と用件を告げる。上司の表情は揺るがない。ただ長い指が、無意識のように胸ポケットのペンにふれる。
彼の心は見えない。本当は何を思うのか、それは誰にもわからない。
それでも思う。願うように。あれが彼の本心だと。あの一瞬、俺の一声でかき消えてしまうような、夢のような一瞬でも。
俺はきっと、その心にふれたのだと。