【SS】春になったら
「雪が溶けたら、なにになる?」
定番のナゾナゾだ。知っている人間は多いだろう。もちろん俺も知っている。
ただ、ひっかかってみせることも、答えを知っていると言って盛り上がることもしないだけだ。
「無視はやめろ」
笑いながら俺の肩を小突いて、早瀬は机に身を乗り出した。いつも楽しそうだ。
「…理科的には『水』」
「つまらんやつ」
「ナゾナゾ的には『春』」
「おまえ的には?」
どっちが好き?と訊いてくる声は弾んでいる。
「どっちでもいいけど、『雪が溶けたら』なら、春じゃなくね?とは思う。春になったから雪が溶けるんだろ。因果関係がおかしい」
「つまんねーやつー!!」
盛大にディスりながら爆笑している。なにがそんなに楽しいのか。
「雪が溶け(るくらい、あたたかくなっ)たら、なんじゃね?」
「その略はもはや悪意の域」
「叙述トリックはミステリの基本」
「ミステリなのか?」
「ちがうけど?」
なんなんだ。
「なぁ、今日一緒に帰ろうぜ」
「なんでだよ」
「なんとなく?」
なんなんだ。
彼は大きく笑って、自分の席に戻った。
早瀬とは今年初めて同じクラスになった。俺はひとりでいることが好きで、早瀬は人の輪にいることが多く、共通点はほぼない。
賑やかなやつだな、と思う程度の認識だったが、席替えで前後になって以来、彼は度々俺に絡むようになった。なにが楽しいのか謎だが、暇を見つけては話しかけてくる。
中身のない、会話のための会話。その時間を俺と持つことに価値があるとは、俺自身は思えない。ただあまりに楽しそうに笑うから、なんとなくそんな時間を続けている。
「あ、ほらこれ」
「なに?」
「今日、ハラセンが言ってたじゃん。ヒカンザクラだよ」
早瀬が見せてきた画像は、濃いピンク色の桜だった。普段目にするソメイヨシノとは違う色。それに、
「…ほんとに下向いて咲いてんだな」
今日、授業中に教師が話していた桜だ。この時期、南西部の県ではもう桜が咲き始める。ヒカンザクラ、もしくはカンヒザクラ。漢字では「緋寒」「寒緋」と書き、字の通り紅に近い濃いピンク色の花を咲かせる。
花は下向きに咲き、咲き切っても花びらが全開にならない。
よくとおる教師の声を思い出す。画像の花は、確かに言葉の通りだった。説明欄には満開とあるが、木全体では枝部分が多く見え、あまり満開という気がしない。画面上で花の占める面積が少ないのだ。
「な。ハラセンが言ってたとおり」
早瀬が笑う。
寂しそうな花だな、と思った。まるで寒さに耐えるような咲き方だ。
「なんか、寂しそうだよな」
「え?」
「え、そんな気しない?」
俺の反応を意外そうに言って、早瀬は首を傾げた。口元に微かな笑みを浮かべながら、スマホの画面を眺めている。
うつむいててさ。寒そうっていうか、寂しそうに見えないか?
「…おまえがそう言うのは、ちょっと意外だった」
「そう?」
そうかな、と笑って、それきり早瀬は無言になった。ふたりの足音だけが響く。
「春になったら、」
最寄り駅が近くなった頃、不意に早瀬が言った。
「俺、転校するんだ」
「…は?」
理解が追いつかない俺の顔を見て、にっとイタズラそうに笑う。
「せっかくエスカレーターに入ったのにさ。また受験だぜ。馬鹿らしいだろ」
「…なんで俺に言うんだ?」
何を言えばいいのかわからなくて、口にしたのはそんな一言だった。
彼は『人気者』だ。この話を他の誰かにしているなら、話題にならないはずがない。今日のクラスは、あまりにもいつもどおりだった。
「…なんとなく?」
そんな気がしていた答え。
吹き抜けた風を追って早瀬の目線が空に向くのを、画面越しのような感覚で見る。
「…会わなくなるな」
春になったら。
俺の言葉に、早瀬はえー、と笑いながら眉を下げた。
「連絡先、聞いてくんねーの?」
「いらねーだろ」
一瞬だけ見張った目に、夕暮れの光が揺れる。
「いらないよ、おまえには」
言葉は、あまりにも自然に零れた。早瀬は何かを言いかけて、呑み込んで、ふっと微笑んだ。
「…そうかな」
早瀬自身もわかっている。彼が俺を必要とするのは、あくまでこの学校の、このクラスのなかだからだ。そこから出てしまえば、もう彼にこの時間は必要ない。
これからは違う場所で、違う人間を求める。その場所で生きていくために、自分が必要とする時間。それを持つことができる人間を。
例えば定番のナゾナゾについての、中身のない会話。
例えばヒカンザクラの写真を眺めて、寂しそうだと呟く。
…ここでは、そんな時間が必要だったのだ。
「じゃあ、また明日」
「うん」
駅で別れる。ホームへの階段を上っていく後ろ姿を眺めながら、紅の桜を思い出す。
寂しそうだよな。
今の早瀬が必要とした時間。
新しい場所で、彼はどんな画像を、どんな会話を必要とするだろうか。
…春になったら。