できれば感想文は書きたくない

佐々涼子さんの『夜明けを待つ』(集英社インターナショナル、2023年、「あとで読む・第24回」)を少しずつ読んでいる。いまさらながら本の読み方はいろいろあって、一気に読んでしまうほうが面白いものもあれば、少しずつ、日を置きながら読む方がよいものもある、ということに気づいた。考えてみれば佐々涼子さんのエッセイは、新聞に連載していたものが多く含まれているようで、そのときは当然一気読みなどできず、その日その日にエッセイにふれてきたわけである。だから正しい読み方は、一気に読むのではなく、エッセイのひとつずつを日を置きながら読んでいくことなのではないかと思い直した。
「小学生の頃、作文や読書感想文が嫌いだった」と佐々涼子さんは書いている。「クラス全員が読んでいるのに、なぜあえて感想を書くのか、どうしても腑に落ちない。『間違えて撃たれて、ごんがかわいそうだと思いました』。それ以外、どんな感想がでるのかよくわからなかった」と。私も同様に、感想文を書くのが好きではなかった。
読書感想文とは性質が異なるが、いまの職業に就いてから専門書の書評を学術雑誌に書くという仕事が増えた。これはますます苦手である。まかり間違えると、同業者を敵に回すことになる。もちろん建設的な議論であれば問題ないのだが、まれに人格批判にまで発展する応酬があったりすると、書かなきゃよかったという気分になってしまう。だから書評には暗黙の様式というものが存在する。まず本の全体の内容を説明して、その本がどれほど学界に寄与しているかを述べた上で、後半において若干の疑問を差し挟む。あまり褒めすぎてもいけないし、けなしすぎてもいけない。その匙加減が難しい。そして最後に、多少の疑問はあるとはいえそれでこの本の価値が揺らぐことはない、自分の理解不足や誤読を恐れるばかりである、と結ぶのである。この様式美がどうにも苦手で、どうしても断れない場合を除いては、最近は書評を依頼されてもお断りすることにしている。もし私が、この様式の通りに書評を書いていたら、どうぞ笑ってやってください。
とにかく読後感を表現する文章が苦手なので、それで「積ん読」をテーマにした文章を書くことにした。積ん読についての文章だと、読後の感想を書かなくてすむと思ったからである。だが積ん読についてばかり書いていると、本が読めなくなってしまう。それに、実はそんなに書くネタもない。いっそ辞めてしまおうかと思ったのだが、よかったら読んでくださいとこっちからお願いした人もいる手前、おいそれと辞めるわけにもいかない。そこで、積ん読本を実際に読んでみて読後の感想を少しずつ書いていくことで長続きさせようと方針を転換した。ま、こんな裏話はどうでもいい。つまりいまは書くことがないのだ。

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