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場末のライラ

路地裏に入らなければ見つからないような、営むつもりがあるのか疑う酒場は、存外客をとっていた。
海賊や山賊じみた汚らしい男たちから、祈り疲れて羽目を外すシスターまで、まさに老若男女問わずの酔いどれ人間の坩堝だった。
零れた酒、酔った歌声、興奮に溢れる汗、笑い声、何処かの国の五月蝿い音楽。寂れた店の割には、騒々しく生々しい生活を数多く招いているらしかった。
店主は、それを眺めながら黙々と手を動かして酒を作ったり、ジョッキを洗ったりしていた。少し黄ばんだ白いワイシャツ、藍色のベスト、細身のスラックス、という服装が彼の線の細さを一層強調している。
「なぁ、お姫様はどこ行ったんだい!」
どこからともなく、そんな声が上がる。
店主に絡むように発せられた言葉は、他の客の心にも火を付けて回ったらしい。ぽつりぽつりと、同じ台詞が酒飲みたちの口から飛び立った。
店主は空のビール樽を軽く蹴飛ばすと、騒ぐ連中を長い前髪の奥から見回した。
客たちは、その些か荒っぽい行動に目を丸くして静まる。
「遅れてんだよ、待ってな。姫はそう簡単に下民の前に姿を見せないもんだぜ」
静寂をこれ幸いと、店主の横に立つガタイのいい男がそう言った。彼も店主と同じような格好をしているが、一回りほど大きく見える。
店主は一度たりとも声を発したことはなく、この男が声帯代わりだった。よく通るその低い声に、客たちは肩を竦めたり酒を飲み干したりする。
「早く来てくんねぇと、みんな歌を聞く前に酔って寝ちまうよ」
誰かが笑いながらそう言った。釣られるように、ちらほらと笑い声が上がる。
丁度その時、ぎぃぃと音を立てて木の扉が重々しく開かれた。
酒場の全ての目が一斉に動く。
来た、と誰もが心の中で呟いていた。
扉の奥から現れたのは、雨に濡れた小柄な男。継ぎ接ぎだらけの茶色いロングコートに、よれたシャツとズボンは洗濯の最中のように濡れそぼっている。
彼は濡れた髪を掻き上げ、服の裾を絞りながら肩で息をしていた。
一瞬の沈黙。
「姫様〜! 待ってたぜ」
酔っ払った声がしんとした店内を切った。それは、待ちかねた人々の堰も切ったようだった。口々に男を囃し立てたり、横を通ったその肩を叩いたりした。
姫様、と呼ばれた小柄な男は、それに一々会釈をしたり笑顔で何か返したりしながら歩く。彼が姫などと呼ばれているのは偏に小さな体格とこの柔らかな物腰のため(当然、からかっているわけである)だったが、ガタイのいい、店主の声帯代わりは呆れたように手招いて急かす。姫は、シンデレラよろしく慌てて走った。
「キヨさん、キクさん、すみません遅れてしまって」
ぺこりと頭を下げ、男は謝った。
キヨ(これは店主の方)は、幾分優しい表情で首を横に振る。キク(これが声帯代わり)は、ため息をついて首を振った。
「スナ、遅れてくる分にはいいんだけどな、傘くらいちゃんとさしてきたらどうだ? びしょ濡れだぞ」
「す、すみません。雨が降るとは思わなかったもので、傘を忘れていたんです。いやぁ、あんなに降るとは……お陰でシャワーを浴びる手間が省けちゃいました」
「バカ。ほら、さっさと着替えてこい。店の中に洪水起こすつもりか」
「そ、そうですね。すみません」
スナはぱたぱたと店の奥へ駆け込んだ。キクはその背中を見送ると、キヨへ視線を送る。キヨは、ビールジョッキを片手に何度か煽るような動作をした。
キクは、それに頷くと客たちに向き直る。
「お前ら、喜べ! 全員に一杯ずつ奢りだ!」
爆発が起きた。
店の外を通り掛かった猫すら、飛び上がって驚いて逃げ出すと思われるようか歓声だった。
キヨが奢ることは大層珍しいことだったが、スナが来る時は別──だから今日は客入りがいい──だ。気分次第で、一杯だけのタダ酒を楽しめる。
歓声が鳴り終わる頃、スナが着替えを終えてホールへ現れる。歓声はやがて、拍手へと形を変えた。
キヨが片手を上げ、再びの静粛を促す。そして、スナへと視線を送った。スナは頷くと、すぅと息を吸い込み、目を閉じる。
目を開いたと同時にその口から出たのは、小柄な体躯と頼りなさげな態度からは想像もつかない、荒くれたおおらかさを纏った唄声だった。
楽器はない、声だけの演奏。
けれどもその唄声が、スナの背後に多くの楽器が背負われ奏でられている錯覚を生んでいた。
子守唄にはならないが、安寧を求める大人に必要であろう荒んだような歌詞が紡がれる度、音頭を取る手拍子や合いの手の声は重なり、酒場が一体化する。人々は、ここが場末の酒場であることなど忘れ果て、まるで高尚なオーケストラのコンサートにでも来ているかのような気分になっていた。
数曲を歌い終えると、スナは深深とお辞儀をした。
また、爆発的な拍手が起こった。
「ありがとうございました!」
拍手は鳴り止まず、数分は続いたように思われた。客は、思い思いに目の前のテーブルに金を置いては拍手をして歓声を上げた。
キクがスナの前に躍り出ると、両手を上げてもう沢山だと言わんばかりに諌める。
アンコールを求める声は無視した。
「はい、今日は店仕舞いだぞ! とっとと帰れ!」
いつまでも騒ぐ客に、キクは痺れを切らして大声を上げた。
「なんだよぉ、毎回こうだよなぁ。なぁんでスナが来てくれた日は、歌い終わりと同時に店仕舞いしちまうのかね」
客の一人が、愚痴るように声を張り上げる。
「そうでもしねぇと、お前らが居座り続けるからだろうが。俺らも休みが必要なんだよ。わかったら帰れ帰れ。またスナの来る日を楽しみに仕事でもしてな」
ぶーぶーと文句を垂れながらも満足気にしている客をあしらい、キクが客を木の扉の外へ一人残らず追い出した。

「お疲れ様でした〜」
空になった酒場の中、スナが呑気な声と共にカウンター席に座った。キヨは口角を上げ、空のジョッキをスナの前に差し出す。
「あ〜、ありがとうございます。えっと、いつものください」
スナの気の抜けた言葉にキヨは頷き、用意を始める。
一方のキクは、テーブルの金を集めてカウンターに戻ってくるところだった。金の半分をズボンのポケットに入れると、残りをスナの前にどんっと置いた。
「ほれ、今日の稼ぎだ。キヨ、悪いがもう帰らせてもらうぜ。妹の迎えを頼まれてんだ」
「妹さん、お怪我されてたんでしたっけ」
スナがキクを見上げて首を傾げた。キヨは、心配そうな表情で二人の会話を聞いている。
「あぁ。迎えに行けるのが、今日は俺だけでな」
「それは早く行ってあげないとですね」
「……遅くなるとふくれるからな。悪いな、掃除は二人で手分けしてやってくれ」
キクは眉を垂れ下げて笑うと、そそくさと店を後にした。
「行っちゃいましたね〜」
いつの間にかジョッキに注がれていた薄いアメリカンコーヒーを飲みながら、のんびりとスナが言う。返事はない。
かちゃかちゃと小気味よく響く音に身を任せ、スナはゆっくりと口を開いた。先程までの、呑気な声色とは打って変わった、不安げで所在の無い声だった。
「……僕、舞台で歌わないかって誘われたんです。この間歌ったあと、帰りに」
キヨが一瞬、スナを見る。けれども手は止めず、静かに続きを待っていた。
食器の当たる音と水の音の合間に、スナの言葉が溶けて混じる。
「それで、ここに来るのも難しくなるかもしれなくて。今も二週間に一回とかなんですけど……お稽古とかするから、忙しくなるって……僕、昔からの夢だったから、何も考えずにはいって答えちゃって……」
申し訳なさそうに言うスナに、キヨもいよいよ手を止めた。じっと見つめていると、スナは眉を下げて無理に笑い顔を作り始めていた。
「お世話になってるのに、不義理で……」
頭を下げようとするスナに、キヨは片手を上げる。言いたいことがある、という合図だった。スナが素直に口を閉じたのを横目に、キヨは手近に置いていた紙切れと鉛筆を手に取り、なにやら書き付けた。
『めでたい
気にしなくていい』
口数の少ない男の、これまた少ない文字。
スナは気の抜けたような笑い声をこぼし、アメリカンコーヒーを啜った。温くなり始めていたそれは、言われなければそれとわからない味だったが、好物でよく飲んでいるものだ。
黙って紙に文字を書いているキヨの考えていることが読み取れず、スナは好物の味が益々わからないものになっていくのを感じていた。
『応援してる
舞台、見に行くよ』
ずず、と俯き加減にコーヒーを啜るスナに、キヨはそう書き記した紙を見せた。決して綺麗とは言えない文字だが、孕んだ優しさがそれを美しいものとしていると思った。
「ありがとう、ございます……僕、頑張ります。絶対絶対、頑張ります」
スナは泣きながら笑った。キヨも、不器用な笑顔で慰めるようにスナを見ていた。穏やかで、緩やかな時間だった。
「キヨさん、僕が歌ったあと、僕とキクさんに、お客さんがくれたお金を半分ずつくれるじゃないですか。本当に嬉しかったんです。お客さんが喜んでくれて、お金をくれることもだけど、キヨさんが僕の歌を認めてくれているような気がして……」
涙を拭いながら告白する姿に、キヨは照れたように頬を掻いた。それから、ペンをとって紙を向かう。
『スナはいい歌い手』
視線を逸らしながら、なんとかそう書いた紙をスナに押し付ける。顔は見られないが、きっと相手も照れているのだろうことは互いに想像ができていた。
『疲れたら帰っておいで
いつでも待ってるから』
それは、なんの飾りもないキヨの本心だった。
「あは、なんだかキヨさん、ロマンチストですね。ありがとうございます。僕、なんだか元気出てきました。ねぇキヨさん、僕、お酒飲みたいです」
キヨは驚いたように目を丸くした。
「なんだか、飲みたい気持ちなんです」
晴れやかな笑顔のスナに、キヨはからかうように額を小突いた。そうして、カウンターの下に潜り込んでゴソゴソやった。
しばらくして目の前に出された酒に、スナは目を輝かせる。
「これ、なんていうお酒ですか?」
キヨは、すぅと目を細めて紙を取った。
閉店した酒場には、2人だけの秘密の時間が流れていた。
紙に書かれた文字を見て、スナは間を置いて笑った。つられるように、キヨも笑った。

『場末のライラ』