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私が「感動ポルノ」に違和感をおぼえるワケ
毎年夏の終わりに放映される某チャリティ番組。
酷暑の中、芸能人がマラソンに挑戦する姿や、障害のある方などが様々なチャレンジをする企画に、例年賛否の声が聞かれます。
障害のある方や被災者など、社会的に弱い立場に置かれた方々の現状や課題を伝え、多額の寄付を集めることに一役買っている反面、「感動ポルノ」ではないかと批判する声も。
こうした議論に触れるたび、胸がギュッと痛くなることがあります。
この記事では、10年以上前に、かけだしの社会福祉士(ソーシャルワーカー)だった私が無意識に抱いていた健常者のおごりに気づいた経験を記します。
※参考 「感動ポルノ」とは
身体障害者が物事に取り組み奮闘する姿が、健常者に感動をもたらすコンテンツとして消費されている、と指摘・批判する意味で用いられる語。
ステラ・ヤングが提唱した表現
新人ワーカー、啓発講座開催を命じられる
当時20代中頃だった私は、社会福祉士という職種で、地域の福祉活動の推進をミッションとする行政チックな民間団体で働いていました。
地域活動やボランティア・市民活動を活性化するための様々な事業を手掛けていましたが、そのうちの1つに、市民向けに、福祉課題とボランティア意識の醸成をテーマにした啓発講座を開催するというものがありました。
当時上司から示されたお題は
『障害のある方の地域生活を考える』
というもの。
初めて自分で講座を担当することもあり、緊張の中あれやこれやと企画を練り始めました。
新人ワーカー、企画を練る
私が考えたのは障害のある当事者の方に登壇していただき、実際に生活を送る中で困っていること、手伝って欲しいことについて語ってもらうという内容です。
たとえば
「車いすに乗っているので、こんなことに困っているから街で見かけたらこんなことを手伝って欲しい」
といったことをお話していただき、参加されている市民の方に自分のできることを考えてもらえたら、というねらいでした。
そして身体障害の方だけではなく、知的障害、精神障害の方もお招きし、あらゆる立場から困っていることを伝えてもらおうと思いました。
私にはお話していただける当事者の方の心当たりがなかったので、そうした人を紹介してもらえないか、地域の障害者の相談支援を行っている支援機関に相談に行くことにしました。
新人ワーカー、打ち合わせにいく
支援機関で相談業務をされている方に講座の趣旨を伝え、協力を依頼。
講座開催の協力に快諾していただき、お話していただける当事者の方についても、心当たりを当たってくださることになりました。
そして相談員の方に、企画内容を伝えました。
「障害のある方の困っていることを、市民の皆さんに知って欲しい」
「自分にもできることがあるんじゃないかと考えてもらえるきっかけを作りたい」
若かった私は、そんなことを熱く真剣に語ったのでした。
新人ワーカー、衝撃を受ける
企画を聞いた相談員の方は、冷静に、そしてかみしめる様に口を開きました。
「障害者って、いつも困っている存在なんでしょうか?」
「障害のある人も、私たちと同じように寝て、起きて、日々の生活を送っています。
楽しいこともあれば、悲しいこともあります。
元気に頑張るときもあれば、さぼりたいときもある。
私たちと同じなんですけどね……」
それを聞いて私は頭を殴られたような衝撃を受けました。
自分が知らず知らずのうちに、
「障害者は助けてあげないといけない存在」
と、上から見下ろすような考えを持っていたことに気づいたからです。
それは自分のことなのに、とてもとてもショックなことに感じられ、なんて傲慢だったんだろうと思いました。
新人ワーカー、企画を練り直す
私は、講座の目的をもう一度考え直すことにしました。
そして相談員の方のおっしゃっていたことをもとに、
「障害のある方も地域でふつうに暮らしている
ということを伝える、きわめて牧歌的な内容に変更しました。
お一人お一人が、どんな生活を送っていて、どんな手助け(制度やサービス)を得ながら暮らしていて、何が好きで、何が苦手で、どんなことを日々考えて暮らしているかを話していただく内容になりました。
その後、ご紹介いただいた当事者の方とも打ち合わせをする中でたくさんお話させていただきました。
そして相談員の方がおっしゃるように、皆さん本当に「ふつうに」暮らしていることを知りました。
推しを追いかけてライブに行く話。
「ボッチャ」というスポーツにはまってのめり込んでいる話。
朝起きるのが億劫だったり、たまに作業所もさぼってしまう話。笑
ただ、本当に私たちと同じようなことを考えて暮らす、同じ人間なんだということを痛感する日々でした。
講座当日
講座は好評のうちに終了。
参加者の方のまなざしも温かく、人と人としての交流が生まれているように感じました。
「ふつうに暮らしている」といっても、何も配慮や手助けが必要でないわけではもちろんありません。
障害があってもなくても、お互いが思いやりあうというのは、変わらないことなのかもしれません。
この経験は私の福祉の仕事をする上での原点にもなっているものです。
知らず知らずのうちに善意に見せかけたおごりや、押し付けに陥っていないか、常に振り返りたいと心がけています。
当事者不在にしないこと
さまざまな手法で社会課題を啓発していくことは必要だと思います。
でも私は、新人時代の経験から
「障害者はいつも健気に頑張っていなければいけない」
と何かに挑戦している姿を押し付けてしまうことは、やはり偏った障害者像を植え付けてしまうのではないかと感じずにはいられません。
「支援者主体」「健常者主体」の物語になってしまっていないか」について、私たちは考えていく必要があるのではないでしょうか。