AIは「夢」をみない〜「夢幻」の可能性〜

NHKの100分de名著でフロイトの『夢判断』が放送されている。
第一回で講師の先生が「AIは夢を見ない。chat GTPにきいても、AIは夢を見ません、としれっと回答するんです。いわば、人間とAIの違いは夢を見るか見ないか」と解説していてなるほどと思うと同時にホッとした。

AIの台頭により、もはや人間は存在すらしてるかしてないかわからなくなっていらないとされてしまうのではないかと懸念していたので
「夢」というわけのわからない概念を人間が持ち続けるかぎり、AIが夢を見始めるまではまだ大丈夫そうだ。まだ時間はありそうだと思った。

2024年4月9日の読売新聞にて
読売新聞とNTTが
「生成AIのあり方に関する共同提言」を発表した。

AIの利点として人間にとって使いやすいインターフェースやエクスペリエンスを備えている、という一方で
現状では人間はこの技術を制御しきれないとした。

個人的には現時点では制御どころか、学習速度に追いついていない。利益よりリスクのほうが多い印象だ。

必要は発明の母というが、
人間とは発明のあとにそれが手放せないため、必要を後付けで理由つける癖があるように思う。

しかしもしかするとそれはAIの介入できない人間の世界、思考なのかもしれない。

必要ではないのに生み出してしまう。
「直感」「勘」というデータ無視のギャンブラーな感覚。

無意識に手が動く、果報は寝て待て

まったく役に立ちそうにない無意識で無責任な感覚がいま必要なのかもしれない。

中途半端に賢い人ほど騙されやすい。美辞麗句を並べて立てられるとそうかもしれないと思ってしまう。

なにも知識がない方がかえって怪しいことに気がつけることもある。

「夢枕にたつ」というのが古文にはよく出てくる。霊魂や神が夢に現れる現象だ。昔の人はこれを信じた。
枕、というのがポイントかも知れない。頭の中で見たからこそ信じた。
大事なことは頭に浮かぶという身体的感覚の経験があったのかも知れない。
昔の人は自分の気持ちや心情は「腹」や内臓に現れるものだったと思う。腹が立つ、腹に一物、腹の虫がおさまらない。なにかと感情は腹に現れる。
理性は頭に宿るというのはなんとなくあったのだろう。考えると頭が痛くなる、とかなにか考えをまとめる
のは頭だ。

夢枕というのは、いろいろ考えて悩んでもうきりがない!寝てしまえ!と考えるのをやめると不思議なことに脳が整理されて、いいアイディアが浮かんだりする現象のことをさしたのではないか…と本稿を書きながら思った次第である。

事実、寝る間を惜しんで考えたものよりお風呂に入ってリラックスしたりぼーっとした「無の状態」のほうがいいアイデアが浮かんで
それが世紀の大発明や大発見であったなどよくある話だ。

アルキメデスが風呂に入って王冠を壊さずに金の配合率を測る方法を思いついたように。
浴槽からお湯が溢れるさまを見て思いついたというのが定説だが、
お風呂に入ってリラックスした状態だからこそ気が付けたのではないかと思う。

夢枕によるお告げはそういう脳のリラックス状態から生み出されたもの、と考えると単なるオカルトではなくなってくる。

「夢」というモヤモヤしてなんだかよくわからないものが大事なものなんだということを発見したのがフロイトだが

「夢」というものを芸能として芸術性を高めて国内の思想哲学に影響させたのが世阿弥の大成した「能楽」だ
ここでポイントなのは世阿弥は能楽の開祖ではない。大成者であることだ。日本古来からある芸能…元祖は散楽であるものと世阿弥は説いているが、そうしたもののなかからいいものをセレクトして完成度を高めたのが「能楽」なのだ。

能の基本は、いわば現代的にいうと「夢オチ」である。旅人が途中でであった人が亡霊だったり鬼だったり神様だったりして、かれらの話を聞いてるうちに、かれらは姿を消して
「あれ、夢だったのかな…」となる話ばかりである。
そこに根本的な解決はない。
ハッピーエンドなのか
バッドエンドなのかわかない。
亡霊や鬼や神様はいいたいことばかり話して去っていく。

いまでいうツイッターやブログのようなものかもしれない。いいたいことをいいたいだけいってスッキリしてかえってしまうのだ。
聞かされたほうはナンノコッチャだが
まあ、スッキリしたならいいか。となる。
話を聞くのが面倒だからと話を折るような野暮はしてはいけない。

ここまでいうと、気がついた人もいるかもしれないが精神分析やカウンセリングの手法とこれはよく似ている。
まず患者の話をきく。否定をしないでただうんうん頷くだけ。

否定しないのがポイントである。

これは近代の心理学で発明されたと思われがちだが

じつは600年前の日本にはその基本はあったのだ。

「夢」と「無意識」という「夢幻」の無限の可能性
AIと共生するための新しい哲学となるかも知れない。
そのために、古典芸能からヒントを学ぶという面白い現象が起こるのではないかと期待している。

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