見出し画像

統計だけでは測れない ~人の世界は変わる~

人の認識は変わるもの

色々な情報がなだれ込んできたのでメモ程度に連ねてみようと思います。

統計が必要であるという意味

統計学が功績として挙げられたのは、ナイチンゲールであることはご存じだろうか。当時は病院での衛生面が整わない時代。そのため死因は何であるかを死亡率の比較し数値化することで、病院では何が必要であるのかを説き、病院を病院としてたらしめる形にしたのは紛れもなく彼女の数学統計があったことに他ならない。

そして私も管理者をしていた時は、人の集客をするうえでまた集客した時の人員確保などある程度予測し、5手6手考え不測の事態に即座に行動できるように考えていた。単純には平均利用率の増減や平均化うまくいかない時は中央値か、それに合わせた介護度の分析や人員の能力、収益率の増減から予測し、建物や給料の支払いバランス等多岐にわたる。
また、心理学の論文もほぼすべてに統計学の知識が必要であり有意差の読み取りも難しくのしかかる。見えない心を見える化は納得するうえでは不可欠なのは確かだ。

自己啓発本の罠

しかし、とある統計のお姉さんは、「自己啓発本疲れ」が近年見えてきているという話だ。やれ成功者だのなんだの本を読むが果たして読んだ本人が全て成功をつかめるのかというとそうでないことは多々見られる。成功者も人と違うことをして成しえていることも一つだし、すべての人がその人の人生観で生きている経験しているわけでもない性格も違えばニーズの捉える考え思考回路も違うし行動パターンが違うわけだからいくら読んでも落とし込めないのは個体差が圧倒的に違うに他ならない。これが自己啓発本疲れであり、統計だけでは表現できない人の性なのかもしれない。癒しを求める時代に変わりつつある変化だと言える。

量子や物理の謎 観測の地平線

量子力学や宇宙物理にも統計では表せられない現象を捉えた学問である。物理学のラスボスは生物人類の誕生とも言われているそうだ。天文学的数字の上に地球に意識をもった文明が発達したのは今でもなぞのままであり、地球人以外が生存する確率はあるにせよ、フェルミのパラドックスにある地球外生命体の接触は皆無であり、生命があるのは地球にしかないとも結論付けられている。確率や統計だけでは何も言えない。深読みすれば、宇宙歴138億年の膨張とも言われているものの私たちが観測できる範囲が138億年までなのだそうで、もしかするともっと長く広い可能性があり、138億年よりも先がありその先に知的生命体があるのかもしれないと考えられている。地球が丸く地平線までしか見えないが人が見えるのは精々そこまでで裏側なんて見えないよねってことらしいです。

思考の道筋

最近は、特に茂木健一郎先生のyoutubeがお気に入りです。意識とはなにかクオリアとはなにかなど、全く意味が分かりませんが兎に角そそられます。クオリアという聞き馴染みのない言葉も2000年代初頭から使われている。クオリアとは、「リンゴはなぜ赤いのか」リンゴは赤いとなぜ感じるのか、リンゴと浮かべてあなたはどう感じるでしょう。と感覚や思い出等個人的な深層に現れることなのだそうです。
心理学にはナラティブアプローチという手法があり、個人にある物語や感覚を言語化する療法の一つであり、その源流にあるのが、社会構成主義にあります。社会構成主義は、「細長くて手にもって、字を書くもの」を総じて例えはそれを「ペン」とします。ペンは、社会通念上や歴史や環境や文化圏などにより形成された文字配列・記であり、誰がどのように見てもその概念は、ペンはペンであるという物体であることを指します。社会という枠組みの中でそれ(細くて手にもって・・・・)を構成するものの総称という意味です。
例えば、「私は佐藤です」と言っていたとしても、その他1、その他2が「お前は鈴木だよ」と言うと、「私は(このコミュニティーでは)鈴木という人間で他ではない」という私は鈴木という認識存在でしかないのです。まぁ簡単にコミュニケーションを図るのにはとても便利な総称という捉え方です。
この社会構成主義的に考えると、リンゴは赤いというのは、社会にとっての総称であり、みんなが簡単に理解するうえでたまたま、赤という記号を模した果物をリンゴという風にしハメているだけです。
まぁクオリアの思考と社会構成主義はcognitive認知では全く別物なので並べて論じるのは愚策ですけどね。
ナラティブアプローチは、個人が考える物語にし自分の思いを言語化し聞き手と共有することから始まります。思い悩んだ経験をドミナントストーリーとして語らい個人における思い、思い込みを外在化します。その外在化した別の見方をしたり質問の角度を変え良い方向へ向かわせることによりオルタナティブストーリーを構築し価値観の変容を促していきます。この外在化は、自分自身の思い浮かぶ思考を浮かび上がらせることは、まさにクオリアに似ているかもしれません。その人が歩んできた人生の感覚や思いを言語化する。
まぁ視点的には、なぜそのような発想が生まれるのかという点とこんな気持ちでいるんですという点ではそもそも着眼点が異なります。

今、ここにを感じることは、瞑想やマインドフルネスにも近い気もしますが、マインドフルネスは、そこを感じることに重きをおき呼吸等気持ちを落ち着かせることに効果が及びますが、クオリアは、さらになぜそのように想起するのかのような気がします。でも、はっきりと言えることは研究としての題材が異次元過ぎて理解不可能です。


まとめ

このクオリアという考え方は生命や物理的なのか、それともAIなのか、人は前述の自由エネルギー原理のように自由意志がないかのような振舞にある根源的な捉え方なのか全く想像もつかない世界ではありますが、結局私が言いたいのは、統計が本質を見定める指標だと考えてはいたのだけれども、それだけでは解決できない問題が多く存在するんだなって思うようになったのです。
ただ、統計でも解決できるものはあるけど、解決できないこともあるから、その目の前にある事象をどのように考え、どのように取捨選択して人生をより良く楽しめたらいいねってことです。


私の妄想

以下chatGPTとの会話です。
Q:意識とクオリアの違いは何ですか
A:
クオリア(Qualia)は、個々の主観的な体験の質感や感じ方を指します。 たとえば、「赤い色を見るときの感じ」や、「痛みを感じるときの感覚」、「コーヒーを飲むときの味わい」がクオリアに該当します。クオリアは、個人の意識の中で主観的に感じるものであり、他人と直接比較することができない、非常に個別的な体験です。物理的な説明や科学的な測定だけでは説明しにくい部分もあります。
意識(Consciousness)は、より広い概念で、私たちが自己を認識し、周囲の世界を認識し、考えたり感じたりする能力全般を指します。意識は、注意、知覚、思考、感情などを含む多様な心のプロセスを包括しています。意識はクオリアを含みますが、クオリアそのものが意識の全てではなく、意識は情報処理、自己認識、外部環境との相互作用といった側面も含みます。

Q:社会構成主義は社会全体的で、クオリアは個人的な捉え方で?
A:
そうですね。その通りです。社会構成主義とクオリアは、それぞれ異なるレベルでの現実や体験の捉え方を扱っていますが、どちらも「現実の認識」に関わる考え方です。
社会構成主義は、社会全体の文脈や相互作用の中で、現実や知識がどのように形成されるかに焦点を当てます。つまり、個々の人が「現実」として認識するものは、社会的な影響や文化、言語によって形作られており、これは一人の個人の内面的な体験ではなく、集団的なプロセスによるものです。
:美しさや道徳の基準、ジェンダーの役割などは、各個人が自由に感じ取るものではなく、その社会の文化や歴史的な背景によって形作られたものとされます。
クオリアは個人の主観的な経験の質そのものを指します。これは完全に個人的な体験であり、他人と共有したり、完全に説明したりすることが難しいものです。例えば、あなたが「赤い色」を見るときの感覚や、音楽を聴いたときの感情は、他の人が同じ体験をしたとしても、その質感や感じ方は異なるかもしれません。
:赤い色を見たときに感じる「赤さ」や、熱いコーヒーを飲んだときの温かさは、他人に正確に伝えられない、個人固有の感覚です。


Q:ナラティブアプローチは個人の主観や世界観の捉え方だけどクオリアはその意識がどの様に作用しているかを捉えるもの?
A:
ナラティブアプローチは、社会構成主義に基づき、個人の経験や物語が社会的な相互作用によって構築されることを強調しています。ただし、個々人がその物語をどのように感じ取り、主観的に体験するか(クオリア的な感覚)や、どのようにその物語を組み立てて語るか(意識の働き)は、個人の内面的なプロセスが関わっています。
したがって、ナラティブアプローチは、社会的な枠組みの中で個人の物語を理解しつつ、その物語を語る個人の主観的な意識やクオリア的な体験も重要な要素として取り込んでいると言えます。

Q:ナラティブの源流は、社会構成主義なわけだけど、社会構成主義は、クオリアとはことなる認識だけど、ナラティブは、クオリアに似通っている。光の加減で見え方が違う。
A:
ナラティブの源流は社会構成主義にありながら、ナラティブが個人の主観的な体験に深く関わるという点では、クオリアに似通っている側面もあります。社会構成主義は、現実や知識が社会的な相互作用の中で構築されることを強調していますが、ナラティブアプローチでは、個人がその社会的な文脈の中で自分自身の経験をどのように解釈し、物語として語るかに注目します。つまり、社会的なフレームワークが存在するものの、最終的にはその中で個々人が「どのように感じ取り、どのように意味づけるか」が焦点になるため、クオリアのような主観的な体験の質が重要になります。ナラティブは、個々の物語がどのように感じられ、どのように意味づけられているかに焦点を当てる点で、クオリアの個人的な感覚や経験の質と重なる部分があります。まさに光の加減によって同じものが異なって見えるように、ナラティブの中で個人の体験が異なる視点や文脈によって変化し、深みを持つように感じられます。
この「光の加減」という表現は、まさにそれぞれの認識が異なる角度から照らされることで、見え方や解釈が変わるという点をよく表していると思います。ナラティブが社会構成主義の枠組みを持ちつつも、クオリア的な個別体験とつながるというこのニュアンスを、的確に捉えている表現ですね。

まぁこの解釈、絶対に怒られそう。


読んでくれてありがとうござます。良ければ、いいね や コメントもくれると飛んで泣いて喜びますので、共感・批判でもなんでもくれると嬉しいです。
よろしければ。フォローもお願いします。フォロー返します。

いいなと思ったら応援しよう!

この記事が参加している募集