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「革命のイグナイター(前編)」世界遺産の語り部Cafe #35
今回の世界遺産は、ドイツ🇩🇪の【アイスレーベンとヴィッテンベルクのルター記念建造物群】をご紹介しつつ、【マルティン・ルターの宗教改革】につきまして前後編でお話していきます。
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“ルター都市”
ドイツ・ザクセン地方にある「アイスレーベン」、「ヴィッテンベルク」には、「宗教改革」の中心人物となった「マルティン・ルター」ゆかりの建造物が多く残っています。
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アイスレーベンの地で生誕したルターの生家は、現在も街の文化財として大切に保存されています。
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ルターはヴィッテンベルクを拠点に活動していたことで、両市はドイツ語で“ルター都市”を意味する“ルターシュタット・アイスレーベン”、“ルターシュタット・ヴィッテンベルク”とも呼ばれるようになります。
「ヴィッテンベルク大学」の神学教授であったルターは、「免罪符(贖宥状)」の販売をしていたローマ・カトリック教会を痛烈に批判、これに端を発してヨーロッパ史を揺るがす宗教改革が始まります。
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“革命のイグナイター”
ローマ教皇「レオ10世」が「サンピエトロ大聖堂」の改修を目的として販売を始めた免罪符は、その当時「神聖ローマ帝国」と呼ばれていたドイツを“重点販売地域”の中心として盛んに売られていました。
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マインツ大司教アルブレヒトは、市民がラテン語で書かれた聖書を読めないことを良いことに、“免罪符を買った者は天国へ行ける”と謳って、私腹を肥やしていました。
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免罪符販売の背景には、ヨーロッパでも有数の富を築き、教皇庁と太いパイプを持っていた「フッガー家」の当主「ヤーコプ・フッガー」による入れ知恵もあったと言われています。
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堕落したカトリック教会の有様を目にし、“免罪符の販売は贖宥行為の濫用である”という結論に達したルターは、『95か条の論題』という質問状をヴィッテンベルク城の教会に送り付けます。
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マルティン・ルター
“免罪符を売る者は永遠の罪を受けるだろう”
といった過激な文言も並んだ質問状は大きな反響を呼び、ヨーロッパ史の大転換期となる宗教改革の口火を切ったルターは“火付け役(イグナイター)”として教会批判を展開していきます。
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“ダブルキング”の破門宣告
猛烈なカトリック批判を展開していたルターは、“危険人物”として教皇レオ10世に加え、神聖ローマ帝国の皇帝「カール5世」という2人の大物から目を付けられてしまいます。
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カール5世は、ヨーロッパを牛耳った名門貴族として名を馳せた「ハプスブルク家」の人間でした。
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神聖ローマ帝国は、“ローマを持たない形而上のローマ帝国”を名乗っていたことから、実質的な統治下にあったドイツに対する愛国心が乏しかったこともあって、選挙権を持つ有力貴族「選定侯」の間で選挙を行って、皇帝を選出する形を採用していました。
ところが“非ドイツ人”の皇帝が続く「大空位時代」などを経て、皇帝選出を巡る困難に苛まれていました。
そこで、有力貴族の中から選ばれる皇帝を、独裁政権化を回避すべく“位が低い”ハプスブルク家から常に選出する形で取り決められ、ハプスブルク伯「ルドルフ1世」が即位します。
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ハプスブルク家は中世の血縁制度を利用して、代々の皇帝がポルトガル、フランス、スペインの妃たちと次々に政略結婚を重ねたことで、広大な領土と莫大な財を得るようになります。
神聖ローマ皇帝に加え、“カルロス1世”の別名でスペイン王を兼ねた“ダブルキング”的な立場にあるカール5世は、ハプスブルクの権力を象徴する人物でした。
絶大な権力者であったカール5世は、宗教改革者として台頭したルターに対しキリスト教会からの破門を宣告した上で、神聖ローマ帝国からの追放を相次いで決定します。
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ルターの“誘拐”
神聖ローマ帝国内では、ルターに賛同する者たちによる「ルター派」が組織されつつありました。
反カトリックの機運が高まる中、カールは暗殺を目論み、ルターの元には刺客が送り出されます。
追手の迫るルターに手を差し伸べたのは、有力貴族である「ザクセン選帝侯(フリードリヒ3世)」でした。
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フリードリヒは、“ルターを誘拐したことにして”自身の居城である「ヴァルトブルク城」に匿います。
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ルターに感銘を受け、後にルター派に改宗したフリードリヒ自身も神聖ローマ帝国諸侯の一員であったため、これは大変危うい行為です。
ともあれフリードリヒの“幽閉”により、差し当たっての身の安全が確保できるようになったルターが次に取り掛かったのは、ラテン語が読めない民のために“新約聖書をドイツ語へと訳す翻訳作業”でした。
次回、世界遺産「ヴァルトブルク城」についてのご紹介とともに【マルティン・ルターの宗教改革】の後編について引き続きお話していきます。
【アイスレーベンとヴィッテンベルクのルター記念建造物群:1996年登録:文化遺産《登録基準(4)(6)》】