「‘’バアル神の申し子‘’ハンニバル・バルカと宿敵スキピオ・アフリカヌス」世界遺産の語り部Cafe #6
本日は、チュニジア🇹🇳の世界遺産【カルタゴの考古遺跡】についてお話していきます。
チュニジアの語源とルーツ
チュニジアという国名は、フェニキアの美の女神である「タニス」をフランス語読みした、首都チュニスに由来しています。
チュニジア国旗の中心に、女神タニスの象徴である赤い三日月が描かれていることから分かるように、チュニジアにはかつて「フェニキア人」によって築かれた古代都市国家が存在していました。
地中海交易による巨万の富を得て、「世界の覇者」とまで呼ばれた古代都市「カルタゴ」は、発祥の地とされる「ビュルサの丘」を中心にして高度な文化が栄えていました。
しかしながら、紀元前3世期〜2世紀まで3度に渡って、古代ローマと熾烈な争いを繰り広げた「ポエニ戦争」の結果、カルタゴは滅亡してしまいます。
“カルタゴの英雄”ハンニバル・バルカ
中でも、カルタゴ随一の名将として名高い「ハンニバル・バルカ」が率いた第二次ポエニ戦争は、人々の間で語り草となっています。
第二次ポエニ戦争については、最近『アド・アストラ -スキピオとハンニバル-』という漫画を最終巻まで読了しましたので、今回はそのストーリーをベースにした上で顛末について話していきます。
フェニキアの最高神バアル・ハモンから名を冠したハンニバル(‘’慈悲深きバアル‘’の意。バルカは「雷光」)は、まさにバアル神の申し子と言うべき存在でした。
第一次ポエニ戦争では、父ハミルカルが「シチリア島」で孤立を余儀なくされて敗れた教訓を踏まえ、ハンニバルは防衛線の薄いイベリア半島から侵入を試み、大回りしてローマ帝国の北部側から攻め入りました。
その決断はイコール、標高5000メートル近い「アルプス山脈越え」を果たさなければならないことを意味していました。
ハンニバル率いるカルタゴ軍は、ローマに反抗的な部族の手引きにより、大きな犠牲を払いながらも、「戦象」を引き連れて見事にアルプス越えを達成します。
アルプス山脈の東側に到達したハンニバルは、それを迎え撃つローマ帝国軍と激突した「トレビアの戦い」で、トレビア川を利用した包囲戦術で圧勝しました。
ローマ軍との緒戦で勝利を収めたハンニバルは、ローマに隷従しながらも反感を持つガリア人に向けて演説を行い、次々と反旗を翻させて兵を補填していきました。
対するローマ帝国側は、代わる代わる「執政官(コンスル)」を入れ替えながらハンニバルと対峙しますが、その度に自然や地形を最大限に利用したハンニバルの奇襲に遭い、敗走を続けます。
さらに、物量で圧倒しようと大軍を投入した「カンナエの戦い」では、ハンニバルに兵の多さを逆手に取られた上、得意とする包囲戦術にかけられて大敗を喫してしまいます。
戦史上の金字塔と言われるカンナエの戦いで圧勝してみせたハンニバルですが、幹部のマハルバルから首都ローマに向けた進軍を進言されるも、慎重派のハンニバルは決して首を縦に振りませんでした。
マハルバルは、提案を却下したハンニバルを評して「戦いに勝つ才能はあっても勝利を利用する才能はない」と批判したといいます。
“もう一人の天才”スキピオ・アフリカヌス
この時の判断が正しかったか否かは、誰にも知る由はありませんが、結果的にハンニバルがローマから離れた地で膠着状態を続けている間、ローマからは彗星のごとく新星が台頭してきます。
若干31歳でローマの執政官に任命された「プブリウス・コルネリウス・スキピオ」は、カルタゴ軍のヨーロッパ側の拠点である「カルタゴ・ノヴァ」を陥落させたのを皮切りに、カルタゴの将軍を次々と撃破していきます。
イベリア半島のカルタゴ領を制圧したスキピオは、シチリア島を経由して今度はカルタゴ本国まで逆に攻め入るという
まさかの‘’反転攻勢‘’に出ます。
急を聞いたハンニバルは、ポエニ戦争の始まりから17年の時を経て、止むなく本国に帰還させられることになります。
こうして二人の名将、スキピオとハンニバルが初めて対峙した「ザマの戦い」で、スキピオは師と仰ぐハンニバルの得意とした包囲戦術を逆に仕掛け、呆気ないほどの大勝で幕を閉じました。
英雄と称されたハンニバル亡き後、ポエニ戦争に敗れたカルタゴは、ローマによる破壊を受け、まもなく滅亡を迎えることになります。
一方のスキピオは、アフリカでの目覚ましい活躍から「スキピオ・アフリカヌス」と称されるようになりました。
カルタゴの滅亡
その後、ユリウス・カエサルによってカルタゴの再建計画が立てられ、円形劇場や闘技場、ローマで3番目の規模を誇ったアントニヌス浴場などが建設されます。
カルタゴの植民地化が進んだことで、フェニキア人が繁栄を極めた時代の街並みはもはや一部の痕跡を残すのみとなりましたが、スキピオとハンニバルがしのぎを削った戦いの顛末は、後世まで語り継がれることになりました。
2000年以上の時を経て、今なお残るカルタゴの考古遺跡は、いわばポエニ戦争の歴史における生き証人といえるかもしれませんね。
【カルタゴの考古遺跡:1979年登録:文化遺産《登録基準(2)(3)(6)》】