エモい文章はこうやったら書けるのさ
しゅんしゅしゅんです。
ぼくは、エモい文章をかきたい。
エモい文章の書き方について調べてみたが、エモいで検索して出てくる記事には、エモい文章を紹介する記事こそ多くあれど、エモい文章の書き方に言及している記事は少ない。
ほぼ全ての記事に目を通してみて、たどりついた。なるほど確かに、そこにはワザがあるようだ。
まとめると、どうやらエモの公式は
エモい=追体験(=固有名詞×5感描写×日常性)×余白
のようだ。
■追体験について
作者はある体験によって感情が揺り動き、ある考えを紡ぎだす。読者にも同様の揺り動きを感じていただくためには、読者がいかに同じ体験をするかが必要、という実にシンプルな話だ。
そして、この追体験を生む方法は、固有名詞×5感描写×日常性というわけだ。
■固有名詞×5感描写について
①「僕は彼女にコーヒーをわたした」
②「僕は彼女にエメマンをわたした」
③「僕は彼女にぬるくなったエメマンをわたした」
※エメマンは缶コーヒーのエメラルドマウンテン
エモーーーーーい。
③はエモエモですね。
誰かのどれかの記事にこんな例がありました。なんで③がエモいのでしょう。それは固有名詞のおかげですね。コーヒーではなくエメマンという固有名詞のおかげなのです。
なんで固有名詞の方が単なる名詞よりエモくなるのか。それは具体的であればあるほど作者と同じ情景を思い浮かべ、同じ感覚を覚えることができるからでしょう。つまり作者との体験シンクロ率がたかまる。
さらにこっからは僕の推察ですが、名詞は固有名詞を包括しているので、読者の思い出の数は、固有名詞より名詞の方が多いはずです。
しかし包括的であるが故に名詞に対する思い出はばっくりとしている。つまり名詞に想いを乗っけることが難しいということもあるでしょう。
僕個人でいっても、コーヒーの思い出を教えてくださいといわれても、スッと出てこないですが、エメマンの思い出を教えてくださいといわれると、スッと出てきます。
入社1年目の頃、僕の朝のルーチンは会社のB1にある自販でエメマンのつめた~いを買って、そのままB1の喫煙所でエメマン片手にたばこを吸うことでした。いまいちな営業成績、大型受注を決めるクロージングのアポ、苦手なクライアントのクレーム対応…毎朝プレッシャーの内容違えど、毎朝たばこを吸ってはえずいたりしていたものです。
僕にとってエメマンには酸っぱい思い出が宿っている。これが大切なんだと思う。読者がある固有名詞を知らないという危険性はもちろんあるが、固有名詞には人それぞれの過去の何かを引きずり出す力がある。
つまり読者の感情のたがが緩む。
エメマンという固有名詞に加えて、ぬるいという5感描写。言うまでもなく5感描写も追体験に拍車をかける。
これまた僕の推察ですが、5感描写があると、人は勝手にその描写に何かをのっけてくる。ぬるいという描写に対して、僕と彼女の冷めた関係を勝手に思い浮かべるかもしれない。ぬるいという描写に対して、今の自分と彼女の冷めた関係を投影してくるかもしれない。
これまた読者の感情のたがを緩める。
エモさはディテールに宿る。
■日常性について
中央線沿線沿いはエモいけど、代官山はエモくない
誰かのどれかの記事にこんな例もありました。
これはなんとなく、そしてめちゃくちゃわかる。キラキラした代官山は日常ではなく非日常なのだ。
ディズニーのスタッフの話はエモくないけど、ディズニーのスタッフがパークでの明るさとは裏腹に、暗い気持ちで変える中央線はエモいのだ。銀座のホステスの夜の話はエモくないけど、帰り道の中央線はエモいのだ。(注:エモいがどうかの話であり面白いかどうかの話ではない)
日常は誰にでもあるから追体験しやすい。加えて非日常に対して抱く感情は憧れ、嫉妬、開放感、興奮など、わりとはっきりしたベクトルで、感情が思い切り動く。感情が揺り動くとは少し違う。
■余白について
いくら追体験があっても、その体験から紡ぎだされる考えに、答え感があればあるほど、エモくない。
答え感とは論理的すぎる説明。体験から生まれる答えはストレートにわかりやすく伝えるべきだと思うが、そこに至る道筋を理詰めで説明すればするほど、読者に反論の余地はなくなる。そこに読者の感性はのらない
読者自身が読者なりの答えを紡ぎだす余白がなければエモさはなくなる。きちんとした説明をされればされるほど、教科書を読んでいるような気持ちになる。
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しかし、文章って奥深いなあ。ほんとスキ。何事も極めようと思えば奥深いものである。この奥深さを面白いと思うか、面倒くさいと思うかが、その人がそれを好きかどうかの分かれ道なんだろうなと思う。
では。
※今日の記事は、主にこの2つの記事(+他2.3の記事)から得たものです。素晴らしい考察と気づきをありがとうございます。