(連載46)洋服のリメイクで生計を立てる:デザインとアートの境界線:ロサンゼルス在住アーティストの回顧録:2004年-2009年
前回まで、しばらく音楽の話が続きました。いやー連載41から45まで、長かったですねー。
って自分で書いておいて、 アンタ、無責任なぁ〜!
飛ばさずに読んでくださった方々、本当に感謝致します!
でも、ぜんぜん読んでない方のために、思いっきり時代を遡り、90年代中頃から2012年くらいまでの、私の音楽人生の流れを、軽くまとめてみましたんで。
1。ロサンゼルスに住む日本人でコリアタウンのカラオケ・ボックスに行ってるうちに、だんだんエスカレートして、宴会芸の馬鹿騒ぎをするようになった。
2。あまりの楽しさに、意味もなく「仮装したらどうか?」とやってみたら、盛り上がりレベルが、爆上げ!
3。それが日常となり、人のパーティーにも仮装で出かけるようになり
4。派手な服装のチャラ〜い、パリピー(パーティー・ピーポー)となり
5。パーティで踊ってたら、ローカルのバンドにスカウトされ、
6。踊り子として、ヨーロッパツアーなどで100回以上のライブをこなし
7。バンドやってるんだから、「本物の」ミュージシャンになりたいと思い
8。まずギターを買ってから、自分のバンドをはじめ、
9。元ディーボのアランが参加してくれ、バンド人生のピーク?を迎えた。。。
と、、今まで詳しく書いたお話(実話)を箇条書きに整理してみました。
本当はこれからも、まだまだ続くのでありますが、それはまたのちに。。。
さて、一旦、ここで、音楽の話は、おいといて。
今回は、そのバンド人生の裏側??っていうか表側??の、もう一つのアタクシの人生模様を、話そうと思います。まあ、最初からこちらの方がメインでありますし。
その前に、今まで読んでくださった方は、おわかりだと思いますが、自分のバンドをはじめてからも、音楽で食べていこうなんて、一回も思ったことなかったです。はじめっから、そこを目指してない自分なんで、、、。
万が一、音楽でキャリアを積もうと思っても、積めるわけがないでしょ??
もうこの時点で50代が目の前だったですし。。。。爆
えっと、時代をバンド以前の90年代にもどします。
さかのぼりまくって、つまり私が30代から40代にかけての頃です。
その頃の私は、洋服がコンセプトのアート作品の制作のために生きておりました。
なので、食べるための仕事は、古着屋、のちにヴィンテージショップとなる「シャボン」というお店の店番と、日本のコマーシャルのプロダクションのお手伝い、日本から来る人の運転手、コーディネイト、たまにライターなどなど、来るもの拒まず、なんでもやってました。
一生、バイト人生?
はい。それで、全然OKでした!!
特に一番メインの店番は、その日暮らしの生活ではありましたが、オーナーが昔からの友達であり、カラオケ馬鹿騒ぎのメンバーの一人であったので、遊びと仕事が同じようなレベルでこなせる理想の毎日で
ストレス・ゼロ!
さらに。。。
その上に!!! ですよ!!
今度はこの店番仕事自体から、
新しい道が開けたんです!
これが今回のメインのテーマであります。
もう、いつも前書きがながくなってしまって、すみません。
具体的に申しますと、すでに連載38と39。。。に書きましたが、
バンドにスカウトされる前までは、私は、ま、自称ですが、現代美術というのに挑戦しようとしていた、女戦士!!
汚れたメンズシャツの襟=汚れの首輪を集めて、襟の部分をパッチワークのようにつなげて、ファッション・ショーをやったり、
また汚れた襟の絵を描いて、ローカルのギャラリーのグループ展に出してもらったり、と。
バンド活動以前は、
真面目な、
食えないアーティストだったのでした。
あ、今もか。。。汗
そして、2001年に、「汚れの首輪のファッションショー」をやった後、ショー用に作ったもので、臭くないやつ(苦笑 を選んで、 店番してるお店に、置いてもらったところ
意外にも!?
評判がよかった。
自分としては、汚れた襟で作った服というのは、ファッション・ビジネスに対抗して、ビジネスが絶対やらないような服で挑戦した!ものが、
臭くなければ、
ファッションのマーケットにのせられるという、
この皮肉!!
なんというアイロニー!!
まあ、もともと、ファッションとアートの間、、、というのが、自分の立ち位置かもしれないと思っていたので、この展開は今から考えたら、そんなに不思議ではなかったのですが。
つまり愛(ラブ)と憎悪(ヘイト)は同じステージにある、ファッションを愛して意識してるからこそ、反抗もしたくなる、、、という事でしょうか。
それで。
周りからもそんな「汚れの首輪にシリーズ」のようなハイコンセプトではなくて、ただ、シンプルに古着のリメイクをやってみたら?と、勧められました。
つまり、ユーズド(中古)の服をデザイン的に当時のトレンドの合うように作り直したり、着やすいような形にリフォームしたり、、、リサイクルして作り替えて、マネタイズを目指す。。。
ふむ。。。
なんてったって、服に関しては、20年のキャリア! 技術的には、もうなんだって作れる自信はありました。(ギターと違って。汗)
そしてまた、もともと、いらなくなった洋服が集まってくる古着のロフト、恐ろしい消費社会の影を実際に見て、、、これをご覧ください!
少しでもその中から、そのリサイクルできるものを選んで、再度、この市場のサイクルに乗せるというのは、すごく正しいことのように思われた。
今から考えたら、まさに、
SDGs です!!
早すぎて言葉なかっただけで。。。
(何をやっても、いつも時期がズレてる自分)苦笑
ここに集まってきてる服のひとつひとつをチェックすると、ここはよくできているのに、ここがトレンド的にはフィットしてない。だったら、そこをとりのぞいて、合ってる部分だけを残して、他のいいとこだけでつないでみたらどうだろ???
アートのコラージュで切り貼りするみたいに?
ヒップホップのオールドスクールのDJが、好きな部分だけをターンテーブルで繋ぐみたいな感覚?
ためしに、やってみたら、すぐ夢中になって、すぐ出来た!これは、デザインで、現代アートじゃないんだ!って割り切ったら、世界が広がった!!
今はコンセプトなんて忘れて、徹底的に、
「職人ルンナ」になりきろうじゃないか!!!!
今まで学んだ、そして経験した洋裁のテクニックのすべてを、惜しみなく放出し、服の墓場にいる衣服たちを、蘇らせるのだ!!!
それも、ただ、袖を切って、半袖にしたりとか、裾を短くしたり、、、とかだけじゃなくて、何か自分にしか思いつかないような、作れないような、誰もが着たくなるような服に蘇らせてみせるぜ〜!!
私がやらなくて、誰がやる?!!
と。
勝手に、ひとりで盛り上がった!
* * * 自分のミッション * * *
パッとみて、わぉ〜〜!!と、目につくような服。
キャラが立ってて、初めてのデートの時に着るような勝負服。
初めてのデートが終わって、じゃあねーって別れたあとにいい感じのオーラが、バックスタイルに出ている服
でも、体に馴染む、着やすくて、着ているのを忘れるような服
そんくらいやる気出して、燃えてるんだったらぁーいっその事、自分のブランドを作って、リメイク・ブランドにしようと思ったんです。
思ったら、すぐ実行です。気が短いのでね。汗
ブランドの名前は 「ボウイ マイナス ワン Boy minus One」
深い意味はないけど、デビッド・ボウイのボウイ。。。ボウイ・ジョージのボウイ? 少年というイメージも好きだし、少年から一個引いたら少女になるっていう??笑 レディスのブランドです。
そして、ボウイマイナスワンの、ゴールは。
絶対に売る!!
だって、
売れなかったら、タダのゴミ!
だから、徹底的に売るための努力をした。トレンドを調査するだけじゃなくて、この服を着る人はどんな人だろう。その服がどういう風に社会に出ていくのだろう?
自分がリメイクした服を眺めて「こういう服をきてる人が好きかどうか?」
これを着る人は魅力的な人なのか?
こういう服を着てる男性、女性とまた、会いたいか?
それで、作ったら必ず一晩おいて、眺めてみて、ダメ出しした。
マネキンを後ろ姿にして、イメージトレーニング。
じゃーねーって、別れる。振り返る。パッとその服をみて、かわいい!!って思えなかったら、思えるまで、やり直した。
ともかく、職人ルンナなんでね〜気合いをいれて、取り組みました!
そして、少しずつ、自分が作ったものをお店に置かせてもらったら、
売れた!
また作ったら、また売れた!
また作ったら、
またまた、売れた!
そして、ある日、日本の仙台からきた、若いバイヤーさんの目に止まって、その後、私をめちゃくちゃプッシュしてくれる事になった。
この頃、時代はオンラインショップがはじまったばかり。たくさんの人がまだネットで服を買うというのに慣れてない時代です。ところがこのバイヤーさんはいち早くそれをやってて、私の服を全国に大々的に宣伝してくれたんです。
もちろんリメイクでも一点ずつ作っているので、売れたと言っても量的には大したことないですが、制作サイドはもう多忙! お店番をやってる時間はなくなった。
自分が作るもの、ほとんどをこの仙台のお店が買い取ってくれて、ついには、2008年ですが、日本に行った時、仙台にまで招待してくれたんです。
そしてお店に着いた時は出待ちの人がいるくらい。。。。また私のものを片っ端から買って、家に「ルンナ部屋」というのができているという人までいました。
もう驚きました!!!感激しました!!涙、涙。。。。
このリメイク・ビジネスは、のちに、アシスタントが一人から二人、3人になってゆき、銀行口座も作り、会社になりました。ひとつひとつ手作りなので、生産性が低く、量産できないので、お金持ちにはなれなかったけど、しばらくは十分、これで生活ができたのは事実です。
好きな事で、マネタイズ。。。。。やった〜!!
なんの苦労もなく、辛酸なめることもなく、思いのまま、気のむくまま、気がついたら成功してた。。。。。だとぉー?なーんだ、今回は、ただの、自慢話かい??
と、、、、、マヅ、、、皆様、そう思われるでしょうね〜。苦笑
しかし、実はですね。
リメイク服が売れて?ちょっとだけ、成功したように見えましたが、私は、実はこのトリックがわかっていたのです。
若い頃、東京でやってた服のスタイリストも、そうなのですが、
私には、デザイナーの才能はないんです。
キッパリいいます!!
デザイナーはアレンジ力が勝負なんです。
服のスタイリストもそうでした。
頭の中にいろいろな引き出しがあって、その時代時代にあわせて、その時の形(フォーム)を選び取っていく、引き出しの数の多さが、肝です。
私の引き出しは3つくらいしかないです。だから、たまたま開けた引き出しに、このリメイクがはいっていただけで、作ったものが、たまたま売れて、洋服制作でマネタイズできるようになったけど、それはほんの、偶然だというのも、わかってました。
私はアレンジする力もないし、時代の波をサーフィンし、たくさんの人に届けたたり、一つのアイデアを進化させたり、発展させたりするのは、苦手。
そのかわり、何もないところから、何か見つけてくる。そんなゼロからイチの実験的な場所が自分の領域だとわかっていました。
だから、デザインは苦手でも、それをうんと実験的なアート寄りにもっていくか、あくまで軸足はアートにおいたまま、ファッションとアートの中間を確信犯的に狙っていけば、なんとか、自分ならではの立ち位置が見つけられるだろうと、予測したんです。
それで、いくらリメイクの仕事がが忙しくても、アーティストとしての活動も続けたんです。バンド活動もその一つです。
その他にも、クレイジーなアート・パフォーマンスや、実験的なファッションショー、ともかく思いつく限り事を、片っ端からやりました。
次回はこの時期にやった、イベントの数々を、片っ端からお届けする事にします。
つづく。
L*