(連載12)人生で一番辛かった日々。母と祖父が同時にガンになり帰国。:ロサンゼルス在住アーティストの回顧録:1989年
父からの国際電話で、母が「ガンで、もう助からない。」
突然の悲報。。。。。。
そのわずか、数ヶ月前に私の結婚式で、家族全員がロサンゼルスに来て、クリスマスをみんなで楽しんだばかりでした。
大きなクリスマスのターキーに驚きの父と母。
典型的な観光写真、ユニバーサル・スタジオのツー・ショット。
私の人生の測定メーター、、、
ロサンゼルスの青い空を背景に、それまで喜劇の方にフレていたのに、この瞬間、
悲劇の方に。。。。
振り切れた。。。。
私は日本に着いたら、すぐ母のいる病院に行きました。
病名は「大腸ガン」でした。しかし、母は思ったよりは元気でした。
今だと、ステージいくつとか、客観的に数字で判断できるようなシステムがありますが、当時はそういう判断も病院の先生次第みたいなところが、大きかったような気がします。そして、先生は、「余命はどのくらいか、わからない」と、父に話したようでした。
私はともかく、このまま、日本にいて、母の看病をしようと決心しました。
父はまだその当時、大学で教えていて、仕事がありましたし、妹は東京で結婚して、夫とインテリアの店をやっていたので、休めませんし、弟は北海道の牧場で働いていたので、
これだけでも、うちの家族はてんでバラバラな世界に生きているというのが、お分かりでしょう!苦笑 私の濃い家族の事は、また別の機会に詳しくお話しいたします。苦笑
結局、家族の中で、時間がどうにでもなるのは、私だけという暗黙の決断。。。。。
それで、どのくらいの期間になるか、全く予測できませんが、ともかく母のそばにいる決心をしました。
そして、それをロサンゼルスのトッシュに電話で告げると、「僕もそこへ行く!!」と言いました。
そして、一週間後にコリアン・エアにのって、ソウル経由で福岡空港に来る事になった。
到着の日、私は福岡空港で一人で待っていました。
そして、予定の飛行機が到着して、乗客が降りてきました。
ひとり、またひとり。。。トッシュは、ついに見当たりませんでした。とうとう最後の一人らしき人も、トッシュではなかった、、、、。
私は不安になって、とキョロキョロしていたら、背後から飛行機会社の人らしき人が、「バーマン様ですか?」と、言われ、もう心臓が破裂しそうでした。
そしたら、ロサンゼルスからの飛行機が遅れ、乗り継ぎがうまくいかず、到着は明日になると、と言われました。
私は、ホッとして、ああ、そうですか。と。言ったものの、まあ、明日まだ出直すしかないので、ぐったりとしたまま、とぼとぼ歩いて、小倉行きのバスにのりました。
ちなみに、私の実家は北九州市の門司港というところにあり、この福岡空港まで、家から3時間くらいかかるのです。
でも、まあ無事でよかった。と、思ってバスに乗ったら、
すぐ前に、演歌歌手の「ぴんからトリオ」の宮史郎が、ひとりで座っていました。彼はその昔、演歌で「女の道」というのが大ヒットして、老若男女、知らない人がいないくらいでしたが、
おそらく、小倉で、何かイベントでもやるのでしょうか?
今では、空港まで迎えに来る人もいなくて、こういう誰もが利用するようなバスに乗ってるんだなーって、思うと、なんか切なくて寂しい気持ちになりました。。。。
次の日は、たまたま父の仕事が、お休みだったので、今度は、父の車で空港まで迎え行くことができたので、よかったです。
そして無事、トッシュは福岡空港につきました。
ロサンゼルスの我々の新婚のアパートは、サブレットをしてくれる友人が見つかったので、しばらくは、住んでもらう事にして、
自分の本屋の仕事は、さっさと、やめてきたわ〜!
との事。
トッシュにとっても、これは大決断だったに違いないです。
なんせ、ハリウッドからいきなり門司港ですからね。。。。
こうして、私の看病の日々がはじまりました。
母は当時57歳でした。その時も、まだ意識ははっきりしていて、普通にしゃべる事もできましたし、食事もちゃんとひとりでする事もできました。
ただ、その頃は、今では考えられませんが、
ガンで助からない場合は、本人には告げない。
というのが、普通でしたので、母は何も知りませんでした。
何か別名の、どうとも取れるような病名が告げられていて、まさか自分がガンだとは、思ってなかったと思います、、、。
私は、母に病気のことで、嘘をつくのが本当につらかったのですが、でも、父は「病院の先生が言う通りにするのがいい」と言いました。この件で、何度も父と口論になりました。
そして、病院の先生に直接お尋ねしてみたら、おそらく、先生の今までの経験からなのでしょうが、「日本人の場合は、本人には言わない方がいい」とおっしゃいました。理由は、ガンだと宣告されると「生きよう」という気持ちがなくなって、自殺することがあると。
「日本人の場合」と先生が特に強調されたのは、
おそらく私の態度が「西洋的」だと思われたからでしょう。
それから、母の病気についていろいろ話すのは、なるべく避けるようにしました。
ただ、ただ、いつか、よくなるから。。。。。と、それを繰り返すだけになりました。
私は、毎日、病院に行って、母とたわいもない話をして、買い物をして、家にもどって、食事の支度をして、トッシュと父と食べて、寝て、また母のところへ行って。。。。と。。。 そんな生活がしばらく続いていました。
一方、母の父親(つまり私からしたら、祖父です)は、門司港で、お米屋さんをやっておりました。
当時は、すでに80歳にもなっておりましたが、私が生まれた時からずっと、、、73歳で祖母が亡くなってからも、近所のコミュニティーやお得意さんに支えられて、まだひとりでお店と続けておりました。
仕事一筋の、口数の少ない寡黙な祖父でした。
お酒と豆腐が好きだった、じいちゃん (よく見ると手には徳利!苦笑)
そして、私が門司港での介護生活になんとか慣れ始めた、そんな、ある日。。。
この祖父も、ガンだと。。。発覚!
こちらは肺ガンでした。そして、すぐ、、、入院となりました。
当然、高齢なので、手術などはできません。
二人は違う病院に入院させられました。親子が同じ病院に入院するのは、精神的によくないという、何か暗黙のルールみたいなのがあったみたいなのです。親戚なども口々にみんなそう言いました。ふたりが違う病院なのは、当たり前みたいな。。。。
それで、私の毎日は今度はふたつの病院を回る事になりました。私は祖父が使っていたスーパー・カブに乗り、
こんなかんじの。
午前中は母の病院に行き、そして、午後は、祖父の病院に行き、また、買い物をして家にもどり、洗濯、食事の世話などをしました。
それが毎日、毎日、続きました。
そして季節が変わり夏になった頃です。
母が「もう病院はいやだから、家に帰りたい」と言いだしました。
先生は「お母様の好きなようにさせてあげてください」と。
そして、父もそうした方がいいだろう、というので、病気の母が家に戻ってきたのでした。
母はほとんど寝たきりでしたが、意識ははっきりしていて、会話もできました。ただ、一日中、じっーとしてました。
夏で、暑い日が続いていました。
今だったら、室内にはエアコンがあり、同じ場所で同じ温度で、快適に過ごせたと思いますが、当時は、(最低でもうちの実家には)ありませんでした。
暑さをしのぐために、母は、自分で家の中で風通しのいい場所を探しました。
ある時は客間、ある時は縁側に面した日本間、ある時はリビングのコーナーで、そのスポットを指差して、「今日はここにする」と言い、そこに私が寝床の支度をして、ずっと横になっているという毎日が続きました。
一方、夫のトッシュの毎日ですが。
なんせ日本語がまったくわからないのですが、門司港での生活なるものをしてました。苦笑
父が毎日、門司港駅に1日遅れの英語のタイムス新聞を買いにいってくれ、まあ、午前中はそれを読んで、午後は散歩に行ったり、何か書きものをして過ごしているようでした。
たまに、得意のユーモアで、母がトイレから立った後、もどってみるとトッシュが母の寝床に横になったりしてて、母もびっくり!微笑んで、「トッシュって面白いね〜」と。
こういう「ユーモア」というものは、このどんよりとした毎日に、なんだか、多少でも、うっすらとした幸福感のようなものを与えてくれます。
すぐそれはなくなってしまう、つかの間ではありますが。。。
そんな自分の生活の気休めは、トッシュと一緒に見るテレビの「いかすバンド天国」でした。
たま!!
マルコシアス・バンプ!!
スイマーズ、みうらじゅんのバンド「大島渚」?とかも出てました。音楽だったら、トッシュは日本語がわからなくても、楽しめるので、毎週二人で欠かさず見ました。トッシュは、たまの大ファンになり、のちにCDも買って、東京では、ライブにも行ってました。笑
そして、また時間が経過してゆき。。。。。
しばらくして、、、、
母は家で介護、そして祖父は病院で、という状況事態がまた、変わります。
祖父が入院先で、少し痴呆がはじまったという電話がありました。
それで、病院では手に追えないので、家に連れて帰ってもらいたいと。。。
今のようにケア・マネジャーなどという相談に乗ってくれる人など、いなかったので、我々は、もうチョイスがありませんでした。
なので、祖父も家で介護する事になりました。
母とは違う部屋に布団をしいて、二人はほとんど直接、話してなかったように記憶しています。
母には、詳しい状況も伝えずにただ、
「じいちゃんも病気になったけ、家に連れて帰ったよ。」
と言いました。
そしたら、
「ああ、そう。」
というくらいでした。
一方、家に戻ったじいちゃんは、
「お母さんはどんな?」
と私にききました。
私が、「あんまりよくない。」っていうと、
「ああ、そうか。」
と、短く、一言いいました。
まさに、小津安二郎の映画のような短い会話でした。
そして、私は家での二人の看病生活が、始まりました。
そうして、暑かった夏が終わってゆきました。。。。
じいちゃんは特に病状に変化はありませんでした。認知症の方も目立った変化は、私にはないように見えました。
ただ母は、目に見えて、日に日に弱っていきました。
吐血したり、息苦しそうになり、ついには酸素ボンベが必要になり、
家に業者さんから配達してもらって、装置しました。
また、夜中でも何かあったら、すぐわかるように簡易ブサーのようなのを買ってきて、母のそばに置いておきました。
そうして、私は、ふたりの、もう助からないガン患者の世話で、だんだん頭がパンパンになってきました。
私は、今、思い出しても、、、、
そして、思い出したくない事ですが、
一番、つらかったのは、「愛する人が死に向かっている様子を、日毎夜毎、ずっと見ていないといけない」状況でした。
それまで、自分の人生は、「やりたい事を、全力で、一生懸命やったら、いつか、いい結果になる」と、信じていたし、だから、全エネルギーをそれに注いできました。
でも、今回はそうではなかった。
来る日も来る日も、絶望の縁に向かって進んでいく母と祖父の様子をずっと全力で直視していなければなりませんでした。
そして、私は、ついに、精神的にも肉体的にも、限界寸前になり、とうとう、妹に電話して東京から来てもらう事にしました。
それで、妹が駆けつけてくれて、、、父と私と妹の3人で、24時間体制のルーティーンを作りました。
そして、それから、どのくらいたったでしょうか。もう思い出せません。
秋ももう終わる頃。。。11月3日。
母は、亡くなりました。
私が実家にもどってから、5カ月後でした。
妹とふたりで、泣いて、「母の死化粧」というのをしました。
そのうち、葬儀屋さんが来て、お通夜、お葬式と段取りが進みました。
親戚や母の友人、また、父は大学の前は、市の教育委員会にいたので、その関係でお役所関係の方々など大勢、多分300人くらい?の方が来てくださいました。
お通夜や、お葬式は、トッシュは「長女の夫」という立場だったので、お坊さんのすぐ前に正座をしなければならなくて、慣れない習慣で、かわいそうでした。
お経を終えたお坊さんは、気を使ってくださり、「足をお崩しになっても、いいですよ」とおっしゃっいましたので、私はすぐトッシュの耳元でそれを伝えたら、トッシュは、すぐに「あぐら状態」に足を投げ出しました。
そういう時は、普通は黒い靴下というのが、当たり前なのですが、
トッシュのソックスは、鉄腕アトムのソックスでした。苦笑
お経の直後、
最前列で、真っ赤な鉄腕アトムが投げ出されたのです!
そしたら、お坊さんは、それを見て顔色ひとつ変えずに、
静かな、でも、ちゃんと聞き取れる声で、はっきりと、
「靴下が、かわいいですね」
とおっしゃった。
さすがに、誰も、笑いませんでした。
そして、お葬式が終わりました。
私は「これから、じいちゃんに集中できる」と思いました。
この時は、祖父はまだ家の中では、歩き回れる状態でした、食事も普通にできてました。よくリビングのソファで、仰向きに寝転んで、自分の手をじっと眺めていたりしました。
母の死を、どう受け止めたんだろう???
そんなダイレクトな会話は、、、、、絶対!ありませんでした。
(小津安二郎の世界なんで)
相変わらず、口数は少なかったけど、なんとか少しでも空気を明るくしようと、私がお米屋さんのふりをして、「ウラの野村さんがお米を早く持ってきてって、言いよったよ〜」とか、客のモノマネをして、「おいちゃーん、今度、お米、おまけしてくれんやろか?」などど言うと、嬉しそうに笑いました。
母のお葬式も終わり、事がひと段落したので、父は、私とトッシュを気遣って、「じいちゃんの面倒は、僕が見とくから、気分転換にトッシュとふたりで、温泉にでも行っておいで」と言ってくれました。
それで、トッシュとふたりで、本当に久しぶりに二人っきりになって、山陰の温泉に行きました。温泉といっても、観光ホテルのようなところ。
興味深かったのは、部屋には、有線放送?があって、ダイヤルを回すと、備え付けのスピーカーから歌だけでなく、眠れない時に数える羊のカウントや、駅のホームの音、町の雑踏のノイズみたいなチャンネルもあって、
え? なぜ?とも思いましたが
すぐ、不倫のアリバイ作りだな、と、直感しました。苦笑
そして、次の日にゆっくりとホテルのレストランで朝食を取っていたら、
ホテルの人から、電話だと言われ、それは、父からで
「じいちゃんが今、死んだから、すぐもどってこい!」
でした。
それで、またしても、すぐ家に戻ったのです。
それから再び、お通夜、そして、そしてお葬式。。。。。
10日後に同じ火葬場に行く事になりました。
お骨を待っていたら、そこで働いている火葬場の方と目があって、、、、
「あ、、、、あなたは、この前の???」と言われました。
私は、「はい。」と。ゆっくりうなづきました。
わずが、10日後だったので、私の顔を覚えてた。。。。
。。こうして、私にとっての長い看病生活は、突然、終わりました。。。。
気がついたら、前だけしか見なくて、走りに走り続けて、スカスカになってた。しばらく、思考停止で、ボーーーーーっとなった。
この1980年代最後の年。
天皇崩御。。。。。美空ひばりが亡くなり、昭和が終わりました。
そして、
私の中でも、何かが、静かに音をたてずに、終わった。。。。
長いお話を一気に読んでくださって、有難うございました。
L*
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