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【読書録】國分功一郎『手段からの解放』

宇野常寛『庭の話』では「庭」の概念のなかにアシタカを見出して嬉々として書き連ねたけど、宇野さんはサブカル批評をゴリゴリにしているし、「庭」とアシタカに大した近似もないから触れられていなかったんだろうな、なんて考えたら後から少し恥ずかしさを覚えた。でも個人的な満足感を覚えたから良し。そんな「庭」を念頭に置きながら國分さんの新著を読んだ。

國分功一郎『手段からの解放』(新潮新書;2025)

「嗜好品」という概念は日本語以外の言語にはないのかという調査から始まるが、同じ漢字文化圏について触れられてなかったので中国語に翻訳してみると「奢侈品」だった。英語(「luxury goods」) やフランス語(「produit de luxe」)に近い。漢字文化圏といえど、「嗜好品」は明治期に後藤新平がドイツ語(「Genussmittel」)から翻訳した言葉だそうだからさもありなん。

これ自体、大変驚くべき断言であるように思われるのだが、カントによれば、快の対象は四つしかない。

p39 國分功一郎『手段からの解放』(新潮新書)

論文を元にした1章と講話を書き起こした2章、前書きでは分かりやすい2章から読むこともおすすめされていたが、負けず嫌いで1章から挑戦。

カント『実践理性批判』『判断力批判』を手がかりに「快」を四象限マトリクスに分けて「楽しむ」とはどういうことかを検討する。これが明快でめちゃくちゃ分かりやすい。

「楽しむ」=「享受の快」が主題ではあるんだけども、その主題にたどり着くまでの過程で検討される「崇高」について特に考えさせられた。崇高とは構想力(創造力)と悟性が対象のスケールを処理できずに打ちのめされながらも、理性が奮起することで構想力も負けじと頑張り、結果的に心が活性化されている、その感情。本を読まないとなんのこっちゃって感じだけど、「圧倒的な自然の景観と向き合ったときの感情」などが例えとして挙げられていた。

個人的には横浜人形の家の展覧会で観た、やまなみ工房の酒井美穂子さんのインスタレーションを思い起こした。

彼女が手に取ってきたサッポロ一番しょうゆ味が一面に並べられたインスタレーションは決して「美」ではなかったんだけど、かなりの衝撃を受けた。あれは崇高だったんだろうか。本書ではあまり人が生み出したものに関する感情であるようには解説されていなかったから分からない。

人間の恣意的な操作が介入していない、非コンセプチュアルな作品に惹かれる。間違いなく悟性や構想力では整理できない感情だから、崇高ではなくても、崇高に近い何かなんだと思う。

理由はよくわからないけれども、気持ちよくなるからといった理由で善行を為す人を我々は道徳的とは見なさない。これが意味しているのは、人間は善とは何かを教わらずとも、事実としてそれが何かを知っているということです。この事実をカントは「定言命法」と呼びました。

p153 同上

「電車に優先座席なんかわざわざ設けなくても全部の席を優先座席ってことにすればいいのに」と思っていたけど、この一節を読んで必要な意味が分かった。
席を譲ったときに「この人は善行をした気持ちよさを味わいたい、もしくはいい人だと思われたくて譲ったんじゃなかろうか」と周りの人に思われたくなくて席を譲れない、という心理的な抵抗に対するある種の言い訳(「優先座席だから仕方なく譲った」)としての機能を優先座席は(おそらく)提供している。もちろん皆んながピュアに受け止められたら一番なんだろうけど、そうもいかないもんね。

コンパクトなのに色んなことを考えさせられた本だった。読んだ当初はあまりしっくりこなかった『目的への抵抗』も読み直そうかな。

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