見出し画像

【読書遍歴】こんにちは代わりの本の話

書店で10年弱働き現在は校正者なので「小さい頃から本の虫だったの?」「学校の図書室に通い詰めてたタイプ?」と聞かれることが多い(し、実際に同僚の書店員には本の虫タイプが多かった)。

が、「アフターゾロリ問題」代表例のようにゾロリから活字に移行せず漫画ばかり読んでいた少年時代だったので、10代はほとんど読書という読書をせずに過ごしていた。

そんな自分にとってターニングポイントとなった本たちを、「書評」というよりも「読書遍歴」として辿りながら紹介する。9,000文字近くあるので興味あるところだけどうぞ。


森博嗣『すべてがFになる』(講談社文庫)

本格的に本を読み始めたのは20歳を過ぎてから。大学の情報科学部に通っていることを知って、バイトの先輩がオススメしてくれたのが森博嗣『すべてがFになる』(講談社文庫)だった。

様々な本を読んできた今振り返っても、ページをめくり読み進める感覚、適度なうんちく、哲学的な会話劇など、読書の面白さを知るのに最適な一冊だったと思う。あっという間にS&Mシリーズ10冊を読破。「天才を描ける森博嗣ももしかして天才なのでは……?」と著者にも惚れ込み、小説だけでなくエッセイも手当たり次第に読んだ。

余談だが同じ時期にRadioheadのKID Aを聴いていたのでS&Mシリーズとこのアルバムは自分のなかで不可分に結びついている。

その後「趣味を仕事にするぞ!」という若気の至りで書店員に。

書店員時代にミステリィ作家の島田壮司を囲む宴席(の末席)に加われる機会があった。その場に森博嗣の担当をしたことがあるという編集者がいたので「森博嗣さんってエッセイのように天才肌のTHE合理主義者って感じなんですか?」と尋ねると、「全然あんな感じじゃないですよ。至って普通の良い人です」と答えてくれた。まあそんなもんか、と以降は彼の作品をあまり読まなくなってしまった。

手持ちの彼の作品も『科学的とはどういう意味か』(幻冬舎新書)以外、今はもうない。決して嫌いになったわけではなく卒業してしまった感じ。(森見登美彦作品に関しても似た感覚があって、30代になってから読めなくなってしまった)

ミステリーは「ミステリィ」と表記するし、-erで終わる英単語のカタカナ表記ではオンビキを付けないので、今までもこれからも自分は「森キッズ」であると自負している

またその宴席では酔いが回り弁が立った島田さんのミステリィ論を拝聴することもできた。曰く「ミステリィとは科学小説である」と。スコットランドヤードによる科学捜査の発展とともに「神隠し」のような言葉で有耶無耶にされていた事件などが「合理的に解決できる」ものになったこと、それに伴ったミステリィ小説の発展、江戸川乱歩による猟奇描写が先立った日本への輸入、「新本格」とは何かなど、非常に刺激的で面白かったことが印象に残っている。

森作品をあまり読まなくなってしまったのと同様に、ミステリィというジャンルへの関心が薄くなったのもこのとき。彼のミステリィ論(≒謎を提示しそれを解決してカタルシスを提供するのがミステリィの基本構造という論旨)を聞いてからは、「何かが分かる読書体験」よりも「何が何だか分からない(けどなんだかとてつもなく凄い)読書体験」を求めるようになった。

「政治家だけではなく、人間は皆愚かですから、それが普通だと考えましょう。そんな馬鹿ばかりなのに、なんとか社会が回っている奇跡を密かに喜ぶ以外ありません」

p75 森博嗣『MORI Magazine』(大和書房)

「自分の思ったとおり、好きなことをしなさい」
「それって動物では?」

p65 森博嗣『的を射る言葉』(講談社文庫)

ダン・シモンズ『ハイペリオン』(ハヤカワ文庫)

読書が自覚的に趣味となり、書店員として働き始めてからはとにかく乱読/濫読の日々だった。一つのジャンルに閉じこもらずに知見を広げようと、店長や同僚の書店員からオススメされた本を全て読むということをしていた。(古典と時代小説だけはどうしても無理だったが……)

同僚の書店員の1人に、開店前の荷受けと雑誌出し、そして開店後1時間だけレジに入って帰るおじさんがいた。仕事が終わるとそそくさと帰ってしまうのであまり本には興味がないと思っていた。が、ある日、勤務時間が一緒になり「本読みますか」「どんな本が好きなんですか」と尋ねると「SFが好きだよ」「青背はほとんど揃っているしサンリオSF文庫もだいたいあるかなあ」との答え。青背とはハヤカワ文庫SFのことで、要するに彼は超絶SFファン(しかも古参)だった。

当時ミステリィや哲学に興味があったことを伝えてオススメしてもらったのがフィリップ・K・ディックで、ディック作品のほとんどは彼から借りて読んだ。その他にもSF史に残る代表的な作品は一通り学ばせてもらった。彼から借りたわけではないが、筒井康隆を読みまくったのもこの頃だったかも。

SF内のサブジャンル(タイムトラベル、ディストピア、ファーストコンタクト、サイバーパンクなど)は色々と読んだものの、スペースオペラに苦手意識をもっていた自分に「これなら楽しく読めると思うよ」とオススメしてくれたのがダン・シモンズ『ハイペリオン』(ハヤカワ文庫SF)。いやオススメしてくれたのは別のSF好きの友達だったか?記憶が曖昧。

『ハイペリオン』シリーズ。原著も買ったがSFを英語で読むのはさすがに無理だった

森博嗣と同じく、『ハイペリオン』シリーズが自分の世界をどれだけ広げてくれたことか。SFの全てが詰まっていると言っても過言ではないし、物語の舞台としてもこれ以上のものはなく、今でもあらゆる物語はハイペリオン宇宙のなかで起きているとさえ思っている。

1989年(自分と同い年!)の小説だけど、今からでも遅くないから(アマプラでもネトフリでもどこでも良い)、莫大な予算をかけてこのシリーズを実写化してほしい。

書店員時代に開催した『ハイペリオン』フェア。絵の得意なスタッフに巡礼者とシュライクのイラストを描いてもらった

古川日出男『ベルカ、吠えないのか?』(文春文庫)

『ハイペリオン』と同じように、同僚の書店員からオススメされた一冊が古川日出男『ベルカ、吠えないのか』(文春文庫)。取り上げている本のなかでもトップオブザトップ、自分の一読書人としての人生を180度変えた一冊。

うぉん

野生味が溢れながらも統御されていて、読者が書き手や小説内の主体(=犬たち)と同化するような感覚。軽やかな疾走感と身にのしかかるような重厚さという相反するものが共存している文体。かつて味わったことのない読書体験で、読後はしばらく茫然自失だったように思う。

関東に越してきてから縁とタイミングに恵まれて、書店のフェアのために書いた推薦文が『ベルカ〜』第3刷の帯文に採用されるという僥倖にも恵まれた。Twitter (現X)で本人にも言及してもらえたことは、書店員冥利に尽きる出来事だった。

人間(ミクロコスモス)と社会/世界(マクロコスモス)に対する驚異的な視野と深度、そしてそれらを表現する力をもった存命の作家に出会えたことは本当に幸運だと思う。

ちなみに彼の朗読者としての側面と思想のエッセンスが凝縮されている『通過 Remixed by 蓮沼執太』は、彼のメガノベルにも引けを取らない傑作だと思っている。

私たちは人殺しの歴史しか持たない。

p83『馬たちよ、それでも光は無垢で』(新潮文庫)

未来は後ろにあるのだから、未来を見るためには後方をふり返る必要があって、反対に、前方を凝視していれば過去は自ずと浮かびあがる。すなわち過去は、動作として「顧みる」対象ではないーー。

p234『ミライミライ』(新潮社)

神話とは事実ではない。神話とは真実である。

p112『ゼロエフ』(講談社)

文学の有効性はメッセージにはない。むしろ時差を浮き彫りにすることにこそ、ある。
言えるのは、処方箋が書いてある本など読むな、とのひと言。

p181 「文学の時差」『文藝 2024年秋季号』(河出書房新社)

南直哉『超越と実存』(新潮社)

書店員時代に理工書と人文書を担当し、のちにジャンル長として両方の棚を任せてもらえたことは非常にありがたい経験だった。正誤/善悪/美醜/生死といったあらゆる価値判断において、そもそも自分(人間)はどういう枠組みでその対象のことを考え、向き合っている/向き合っていたのか。自分の興味関心の主題がまさに理工書や人文書の範囲だったので、うってつけの職掌だった。

答えを漫然と探して色々な学術書(といっても新書レベル)をつまみ食いしてきたけれど、なんとなく惹かれて手に取ったのが仏教書の棚に入荷した南直哉『超越と実存』(新潮社)。大量の本に囲まれることによって生まれる差異の感受は、ネットショッピングや個性的な本が最初からセレクトされている独立系書店ではできない体験だし、棚の変化を毎日キャッチできる大型書店の書店員の特権だったと思う。

編集:金寿煥、装幀:島田隆、装画:木下晋「祈りの塔」

死を「分かり得ないもの=超越」、生を「このわたし=実存」と定義した上で仏教史の軸とした一冊。(曹洞宗の視点とはいえ)仏教者の書いた本でこんなに門外漢にもわかりやすく、かつ洗練された本には出会ったことがない。

親鸞は「成無常(無常になる)」によって、仏教を突破した。道元は「観無常(無常を認識する)」によって釈尊に帰還した。いずれにしろ、実存を根拠づけるものとして超越的理念を排除しながら、実存を受容する方法を提案したのである。この思想的挑戦は、世界思想史上、稀有の実績だと私は思う。

p236『超越と実存』(新潮社)

仏教は、「性善説」や「性悪説」の成立を可能にするような「人間の変わらない本性」などは想定しないし、「神」から付与され、「人間」に内面から働きかける「聖霊」のごときものも肯定しない。つまり、「自己」の存在にいかなる確実は根拠も与えず、そこからの「解脱」を主張する以上、倫理を安定的に基礎づけうるアイデアが、仏教には無いということになるのである。

p25『善の根拠』(講談社現代新書)

ナショナリストになるには、その「国」や「民族」に生まれればよいだけだ。要するに生まれたとたんに「自己」を肯定することができる。生まれたという事実以外に、そこにはなんの努力もいらない。実にインスタントで即効性のある自己肯定だ。

p212 同上

「悟り」はもともと動詞である。名詞にするから、何か特別なもの・状態であるように錯覚するが、動詞であることを思い出せば、要は目的語を導けばよいのだ。

p99『仏教入門』(講談社現代新書)

この「悟り」は「愛」においても同様だと思う。「愛」という言葉(名詞)は永遠性を孕んでいて、時間的にも空間的にも有限の存在である人間は「愛」を持ち得ない。つまり愛は存在しない。人間にできることは愛する(動詞)努力を日々続けることだけである。「愛する」ことを本能ではなく知性として実行できるところに、人間の尊さがある。


エイドリアン・フォーティー『メディアとしてのコンクリート』(鹿島出版会)

先述の森博嗣は名古屋大学でコンクリートを研究していたこともあり、小説・エッセイ問わず作中にたびたびコンクリートへの言及がある。また『ハイペリオン』の続編『エンディミオン』に登場する超絶ヒロイン・アイネイアーの師匠が某実在の建築家(ネタバレってほどでもないけどいちおう伏せておく)で、そこから膨らんだ興味で建築史について学ぶと、近現代建築で鍵となっているのはこれまたコンクリートという素材。好きな作品に現れてはこちらを見つめてくるコンクリート。

コンクリートという素材に関心はあるものの、実務書ばかりでなかなか歴史を学ぶ糸口がない。そんななか見つけたのがエイドリアン・フォーティー『メディアとしてのコンクリート』(鹿島出版会)だった。

税抜4,400円。建築系学生でもコンクリート技士でもない自分にとってはなかなか勇気のいる価格

コンクリートという素材を歴史という観点から切り込んだおそらく唯一の書。とにかく歴史書として抜群に面白い。歴史を政治史だけではないオルタナティヴな視点でみる面白さを学んだのもこの一冊だった。

コンクリートは多くの成分が一つに固まるという生成のメタファーから、社会主義国のおいて好んで使用された。

p iii『メディアとしてのコンクリート』(鹿島出版会)

我々の生活を理解するうえでの一般的なカテゴリーの分類ーー液体/個体、平滑/凸凹、自然/人工、古風/近代、物質//精神ーーから、コンクリートは免れ、カテゴリー間を往き来している。この分類しづらさにこそ、人々がコンクリートに抱く嫌悪感の一因があるのではないか。

p8 同上

クリントン・ゴダール『ダーウィン、仏教、神』(人文書院)

小さい頃から動物が好きで将来は動物学者になりたかった。地球上に斯くも多様な動物(特に哺乳類)がいるということに心を掴まれていた。そんななか人生で初めて読んだ学術書は、おそらく中学生の頃に読んだリチャード・ドーキンス『盲目の時計職人』(早川書房)だ。今思えばかなり背伸びしていたと思うが、分からないなりに早い時点でドーキンスに出会えたことは以降の思想形成にずいぶん影響を与えている。

10代から関心のあった進化論と成人してから関心のある宗教。これらが日本という環境でどのように衝突/融和したのかが1冊にまとまっているのがクリントン・ゴダール『ダーウィン、仏教、神』(人文書院)。ちょうど関西から関東に越してきたタイミングで読んだので、進化論や各宗教だけでなく、徳川時代や天皇論やマルクス主義のことを、東京という土地と紐づけて実際的に考えることができた。

今まで読んだ学術書のなかで一番面白い

現実には、日本での進化論の受容は、受動的ではなく、宗教やキリスト教の領域から自由でもなかった。むしろ正反対である。日本で最も早い時期に進化論が解説されたのは、宗教的な文脈のなかであり、そして、その目的はキリスト教を論破するためであった。同時に、日本に進化論を紹介するのに積極的なキリスト教の宣教師もおり、彼らは、進化論はキリスト教と完全に両立しうると考えた。これらの物語は、近代化の望ましい進め方や、宗教が果たすべき役割をめぐる、大きな不安のなかで展開された。

p32『ダーウィン、仏教、神』(人文書院)

興味深いことに、徳川時代の日本ではキリスト教が禁じられたのにもかかわらず、キリスト教が国体イデオロギーに一定の影響を与えたと信じられる理由がある。すべての創造に先立つ唯一のカミの存在という平田の思想は、一つの新しい解釈であり、その後、平田に触発された近代の神道学の一つとなる。そこにはキリスト教神学の響きを聴き取れるが、これは何ら驚くべきことではない。なぜなら、十九世紀後期の非対称なグローバル化のなか、アジアをはじめ世界各地の宗教には、キリスト教をモデルにして自己形成する傾向が見られたからである。仏教徒で生物学者の南方熊楠は、タブーを犯して国家が広めた神道思想を批判し、こう述べた。それは明らかに平田篤胤に基づいており、実はキリスト教と、他ならぬ「創造論」に依拠しているのだ、と。

p78 同上

進化論の存在感そのものではなく、キリスト教の存在と、それとの競合が仏教者による進化論の受容や擁護や拡散を、大部分、駆動したのである。

p111 同上

裕仁は、その名のもとに戦争が行われていた「生き神」であると同時に、熱心な生物学者でもあった。

p211 同上

ダーウィン自身の肖像は、マルクス主義者にとって、いくぶん両義的な思いを起こさせる。一方で多くのマルクス主義者たちは、マルクスとレーニンに従いながら、ダーウィンを、自然と社会の両面の変化を自然法則で説明する大きなパラダイムを共有する同志と見なし、彼を無神論の擁護者として持ち上げた。その一方で、マルクス主義たちは、ダーウィンの自然選択説はイギリスの資本主義の産物であり、それは自由市場における競争原理の表現の一つであると非難し続けたのだ。

p216 同上

こうした矛盾をはらんだ二重の性格ーーそして宗教と科学という両極の必要ーーを、他の誰よりも鋭く体現してきた人物は、天皇裕仁自身だろう。

p253 同上

手塚のマンガを通して、非唯物論的な進化論、生命主義、そして輪廻と無常の仏教思想という、戦前に特徴的な思想の構図が、大衆のなかに広範に、流布された。

p272 同上

ジョセフ・ヒース『反逆の神話』『啓蒙思想2.0』(ハヤカワノンフィクション文庫)

『ダーウィン、仏教、神』で日本の近代思想の豊かさと歪さを学べたことから発展して読んだのがジョセフ・ヒースの『反逆の神話』と『啓蒙思想2.0』(ハヤカワノンフィクション文庫)。アメリカにおける保守と革新または右翼と左翼の関係が紐解かれるので、発展させて日本における「ネトウヨ」や「パヨク」と揶揄される思想の歪みも理解できる。政治問題を考えるときやSNSでの論争に惑わされないための、自身の強固な思想的根拠となっている2冊。

ジョセフ・ヒース『反逆の神話』『啓蒙思想2.0』(ハヤカワノンフィクション文庫)

社会正義の観点から言えば、過去半世紀でこの社会が大きく前身した部分は、いずれも体制内で計画された改革によるものだ。

p51『反逆の神話』(ハヤカワ文庫)

さて、これは逸脱か異議申し立てか?この二つを区別するために適用できる、とても簡単なテストがある。(中略)「みんながそれをしたらどうなるかーー世界はもっと住みよい場所になるのか?」もし答えがノーなら、疑うべき理由がある。

p158 同上

クールとは現代経済の主要な推進力だ。

p318 同上

非常に大きなスケール(「グローバルに考える」)か、非常に小さなスケール(「ローカルに行動する」)のことしか考えないように仕向けることで、外界への動きは僕らに、中間レベルの国の政治経済制度を避けさせている。

p499 同上

進歩的な社会変革は、本来、複雑で達成しがたく、妥協、信頼、集団行動が求められる。だから「心」だけに基づいて達成することはできない。膨大な量の「頭」も要求されるのだ。

p42『啓蒙思想2.0』(ハヤカワ文庫)

特定の制度の「理由を述べる」ことができないからといって、理由がないわけではない。多くの場合、ものごとのありようは、長年にわたってなされてきた多くの微調整の産物である。したがって、たとえ誰にでもどんな知恵かとは言明できなくても、伝統や制度には、膨大な量の知恵が埋め込まれているのだろう。新しい世代ごとにゼロからすべてを再建することに固執したら、新しい世代ごとに受け継ぐものに少しずつ改良を加えて次の世代へ伝えるという、累進的な学習過程に参加することはできなくなる。

p141 同上

直感には健全な面も多々あるが、欠陥もまた多い。理性は、第一世代の啓蒙思想家らが思ったほど強力でも有能でもないだろうが、それでも理性にしかできないことはたくさんある。

p171 同上

どうやって正気を取り戻すかを考えるとき、合理的思考の根本的な特徴をおさらいしておくことは役に立つ。時間がかかる。注意力が求められる。言葉に基づいている。意識的。非常に明示的。またワーキングメモリに依存しているせいで活動が妨げられやすい。したがって、推論の中間段階をメモ書きするといった外部化から恩恵を受ける。

p455 同上

三隅治雄『踊りの宇宙』(吉川弘文館)

三隅治雄『踊りの宇宙』(吉川弘文館)は自分の身体観の根底にある一冊。読んだのは20代前半で、大阪の中之島図書館でたまたま手に取ったことがきっかけだった。この本を読んで(三次元空間において)人間が自身の心理に影響を及ぼせる動きは「(平面の)移動」「上下動」「回転運動」の3種類しかないと気づいた。

まさに宇宙

当時RockSteadyCrewのBboy Ynotがワークショップで来日していて、参加した友達から「Rockとは上下動のことで、頭の位置をどれだけ上下させられるかで感情を表現できる」といった旨のことを言っていたと又聞きした。

このRockが本書でいう「舞踊」の「踊」であり、また「舞」がRollであるのならRock&Roll (その語源は「ダンス」であると言われる)は「舞踊」と同義なのでは?と頭の中でガチンと繋がった。経験と知識が繋がる読書の快感を知った瞬間かもしれない。

わが国では、オドリの当て字に、「踊」のほかに「躍」を用いるが、古代中国の『詩経』では、「躍」は大きくとびはねる動作をいい、小さくとびはねる動作は「跳」と記すとしている。要は、喜びにせよ、悲しみにせよ、感情が燃え盛って、心臓の鼓動を高め、肉体を熱くしたときに起きる身体反応が、オドリである。

p17 三隅治雄『踊りの宇宙』(吉川弘文館)

マはタマ(玉)、マル(丸)、マワス(廻す)などの語幹で、マウは、円形に廻ることをいう。
マヒ(マイ)は、その動詞マフ(マウ)の連用形の名詞化で、ぐるぐる廻ること、つまり、旋回動作である。

p118 同上

詩と音楽に心を投げ込み、旋回を繰り返し繰り返しする時、魂はおのれを離れ、神に近づき、陶酔の中で、神と合一する。

p120 同上

わが国の場合、「回転」と「回歩」をくらべると、前者は少なく、後者が圧倒的に多い。「回転」の希少が、日本の伝統芸能の特色といってよいほどである。そして、「回歩」に視点を置くと、一見対照的と思える「旋回」と「跳躍」とが一線でつながっているのを、踊念仏の例などからも、知るのである。

p126 同上

BOTY2005での一撃のShowcaseが今でも伝説として語り継がれているのは、ターンテーブルに見立てた彼らの動きが日本の伝統芸能の特色である「回歩」に接続されているからでもあるように思う。以降の日本のBBOYはインターネットによる地域性の消滅/均質化でこの特色を失っている。


以上が強い影響を受けた本たち。これからも人生観を変えるような本に巡り会えることを期待しながら、本に関わる仕事を続けていこうと思う。

この記事が参加している募集

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?