【BOOK】『なれのはて』加藤シゲアキ:著 いつか何かの熱になれるなら
いつ、誰が描いたのか不明な一枚の絵の謎を追う内に、時代に翻弄されたある一族の壮絶な歴史を紐解くことになるエンタテイメントサスペンス。
現役アイドルが書いた小説、という枕詞がこれまでも必ずといっていいほどついて回ってきただろう。
だが、今後はその枕詞は必要ないし、自然と外れていくと思う。それだけの筆力を感じたし、色眼鏡で見て読むのをやめるのは勿体無い。
私はラストで涙を抑えることができなかった。
生きるとは何か、幸福とは何か、正義とは何なのか。
本書に描かれているのは、現代に生きる我々に響く「問い」だ。
本作の軸となるトピックはいくつかあるが、私は以下の5つに着目した。
原油(石油)
戦争(秋田・土崎空襲)
猪俣家一族(傑、勇、輝、八重、道生、兼通)
報道(真実の追及、影響力)
著作権(保護期間、パブリックドメイン、意義)
原油(石油):あらゆるものの”なれのはて”
まず、日本に油田があったという事実に驚きがあった。
考えてみれば全く原油が産出されないわけはなく、日本でも少量ではあっても産出されている。
地域としては秋田をはじめとした新潟や北陸地域に油田が集中しているらしい。
その多くは活断層の近くでもある。
秋田県での石油採掘の歴史は比較的早く、1920年代初頭に日本石油(現在のENEOS)が男鹿市で初めて商業石油採掘に着手したらしい。
1925年に男鹿石油鉱が発見され、これが日本初の商業的な石油産出へつながった。
当初の期待ほどの大規模な採掘は難しく、1930年代までには一時中断。
戦後、1950年代に入ると、技術の進化とエネルギー需要の増加に伴い、再び秋田県での石油採掘が本格的に再開された。
男鹿市や能代市周辺で新しい油田が見つかり、日本のエネルギー自給率向上に寄与した形となった。
特に1970年代には、能代市で大規模な油田が稼働し、ピーク時には年間数百万キロリットルの石油が産出された。
ただし、最近では産出量が減少し、採算性の低下も影響している。
秋田県の石油採掘は、技術の進歩とエネルギー市場の変化に柔軟に対応しつつ、地域経済に一定の影響を与えているという。
現代においては、ありとあらゆるものが原油(石油)を元にした製品で溢れている。
SDG’sなどの動きによって少しずつ見直されてきているが、完全になくすことはできないだろう。
地球上のあらゆる生物が死に、土に還り、やがてはカーボンになってゆく。
石油は何億年も前の生き物が死んで海底にたまり、熱や圧力(あつりょく)、バクテリアなどによって変化したものだ。
これはそのまま、作中での台詞にも出てくる、タイトル『なれのはて』である。
戦争(秋田・土崎空襲):知られざる悲劇
終戦直前の1945年8月14日、日本最後の空襲「土崎空襲」があった。
あと一日遅ければ、終戦によって空襲を免れたのではないか。
秋田・土崎が空襲で狙われたのは「油田」があったからだが、油田さえなければ土崎は狙われなかったのではないか。
地元の人で戦争を体験した人は、そう口にしたらしい。
第二次世界大戦、特に日本の敗戦に関しては、広島・長崎への原爆投下のインパクトが大きく、他地域での空襲が知られることは少ない。
本作を読むまで、終戦直前の空襲が秋田であったことを私は知らなかった。
思えば、原爆が投下されてから終戦まで9日間も要したことは不幸だし、そもそも原爆が投下される前に降伏していれば、もっと多くの人たちが生き延びることができたはずだ。
もちろんそうした「if」をどれだけ並べても意味がないこともわかっている。
だが、それでも土崎の人たちのように、あと一日終戦が早ければ、という想いは、胸が苦しくなるほどよくわかるのである。
猪俣家(傑、勇、輝、八重、道生、兼通):時代に翻弄された「泥まみれの一族」
人間にはかくもこのような複雑怪奇な生き物だったのか、と思わされる。
どの人物も、一面的ではなく、陰も陽もあった。
快活に働き、楽しく過ごした「陽」の時期。
自暴自棄になり、世を捨て、あらゆるものを破壊しようとした「陰」の時期。
時代と共に変遷した一族の栄枯盛衰が重厚かつ繊細なディティールで描かれている。
登場人物はかなり多いと思う。
読み進めながら、メモをとっていたので何とか混乱することなく理解できたが、メモがなかったらわからなくなってしまったかもしれない。
決して「華麗なる」一族ではない。
報道(真実の追及、影響力):振りかざす矛であり守るための盾である
真実を追及し、全てを白日の元に晒すことだけが、正義ではない。
元ジャニーズ事務所所属タレントということで、どうしても旧ジャニーズ事務所の問題が頭をもたげてしまう。
ジャニー喜多川の悪行を報道することは、真実の追及に他ならない。
それは本作で問われている「池に落とした石の波紋」を考慮しないことを意味することになる。
そんな作品を発表すれば、当然だが自己保身と捉えられる可能性もある。
だが、それを承知で作品内容を書き直すことはしなかったという。
そういった批判も丸ごと受け止める「覚悟」が著者の中に芽生えたのだろう。
日本の報道機関の問題点として大きく3点あげるとすれば、以下のようになるだろうか。
1. 報道の偏向とバイアス
多くの報道機関は特定の政治的立場や経済的利害に偏った報道を行っているとされ、これにより情報を客観的に受け取りにくくなり、市民が公正な判断を下すのが難しくなるとの批判がある。
2. 情報統制と自己検閲
一部の報道機関は政府や企業などからの圧力に屈して、特定の情報を報道しない、あるいは報道内容を変更することがあると指摘されている。これがあると、真実の情報を入手することが難しくなり、市民の知る権利が制約される可能性がある。
3. クリック主義とセンセーショナリズム
インターネットの普及に伴い、一部の報道機関がクリック数を増やすために情報をセンセーショナルに報道する傾向がある。真実味を欠いた見出しや過剰な情報強調が、読者や視聴者を引きつける手段となり、情報の質が犠牲になることが懸念されている。
置かれた立場や利害関係によって報道の内容が変わってしまうことにどこまで自覚的でいられるかが問われていると思う。
地震などの災害時や事件・事故の報道など、基本的には起こった事実をベースに報じるものだ。
だが、知り得たことの100%全てを報じることが、必ずしも正しいわけではない、と主人公・守谷は結論づけた。
それは恩師:小笠原の教えでもあった。
自分が正しいと信じることを報じるのは基本的な姿勢として間違ってはいないだろう。
だが、それによって傷つく人がいることも、無視してはならない。
週刊誌が芸能人のゴシップをスクープすることで、被害にあった人は救われることもあるだろう。
だが一方でスクープによって傷つく人もいるかもしれない。
どちらが正しいか、ではなく、それによってどう影響が出るのかまでを考慮する必要性は、一定程度あるだろうと思う。
守谷の恩師・小笠原の言葉が胸に迫る。
著作権(保護期間、パブリックドメイン、意義)
TPP整備法による著作権の改正により、2018年12月30日、著作者の死後50年から70年に延長された。
TTP整備法による著作権法の改正は、2018年12月30日に施行された。この改正では、主に以下の2つの点が変更された。
著作物の保護期間の延長
従来の著作権法では、著作物の保護期間は、著作者の死後50年であった。しかし、TPP11協定では、著作物の保護期間を著作者の死後70年とすることが定められている。これを受けて、著作権法も改正され、原則として著作物の保護期間が70年に延長された。
この変更により、昭和43年(1968年)以降に亡くなった著作者の著作物の保護期間が延長されることになった。
著作物の利用に関する権利制限の拡大
著作権法では、著作権者が許諾をしない限りは、著作物を自由に利用することはできない。しかし、著作物の利用を促進するために、著作権法では一定の条件の下で、著作権者の許諾なく著作物を利用することができる権利制限が定められている。
TTP整備法による改正では、この権利制限の拡大が行われ、具体的には、以下の点が変更された。
視覚障害者等の著作物の利用を円滑にするため、音訳や拡大図書の作成等の範囲が拡大
教育・研究等の目的での利用を拡大するため、著作物の複製・翻訳等の範囲が拡大
著作物の流通を促進するため、公表された著作物に係る利用の範囲が拡大
これらの変更により、著作物の利用がより円滑に行われることが期待されている。
法改正以前に著作権が切れていればそのまま、復活することはない。つまりパブリックドメインとなっていることになる。
著作権の保護期間の計算は簡便さを優先させるため、死亡翌年の1月1日から起算される。
イサムイノマタの絵がパブリックドメインとなるには、1960年12月31日に行方不明となる(=7年後に死亡と見なされる)。
1967年12月31日死亡は、死亡翌年の1968年1月1日から起算され、50年後の2018年1月1日には著作権が切れ、パブリックドメインとなっていることになる。
だが、1961年1月1日に行方不明となると、7年後の1968年1月1日に死亡とみなされ、その翌年1969年1月1日から起算となる。
50年後の2019年1月1日時点では、著作権保護期間延長のTTP協定発効日が2018年12月30日であることから、保護期間は50年ではなく70年となる。
したがって保護期間は2039年1月1日まで。本作の時間軸ではまだパブリックドメインにはなっていないことになる。
死亡と認定される日がたった1日ズレただけで著作権の保護期間が50年から70年になるという、法の隙間をついた絶妙な設定が、物語を大きくドライブしていく展開に舌を巻いた。
仕事柄、著作権については多少調べたりするが、突き詰めていけばこのたった1日でその後の人生や運命が大きく変わってしまうというのは、面白いと思う反面、法律の歪さ、人生の理不尽さを感じずにはいられない。
構想からおよそ3年の歳月をかけて完成されたという本作。
アイドルタレントが片手間に「小説ごっこ」をやっているのではない。
作家生活10年で多数の著作を世に出し、さらにそれらを超える大作を上梓した著者の「第二章」と大きく宣伝されているが、私が編集者でもそう太鼓判を押しただろう。
それだけの読み応えのある作品だった。
読んで、ああ良い物語を読んだ、と素直に思えた作品であった。