【BOOK】『あの夏の正解』早見和真:著 「甲子園」という魔法が解けた時、何をすべきか
2023年の夏の甲子園大会(第105回全国高等学校野球選手権大会)は、慶應高校が大会2連覇をかけた仙台育英高校を破って107年ぶりの優勝を飾った。
アフターコロナの時代を象徴するように、声出し応援やブラスバンド演奏の解禁、熱中症対策や投球数制限、ベンチ入りメンバーの増員、5回終了時のクーリングタイムなど、話題も多く盛り上がった。
だが、この盛り上がりは遡ること3年前の「大会中止」があったことも大いに関係があると思う。
2020年5月20日、第102回全国高等学校野球選手権大会は、新型コロナウイルスの感染拡大により中止された。戦後では初の中止決定となった。
その中止となった大会の年に、高校3年生というタイミングを迎えた選手たちは、何を思い何を感じ何を考えたのだろうか。
本書は「あの夏」に、誰も経験したことがない事態に見舞われた「高校野球部員」たちの心の内に寄り添い、「正解」はいったい何だったのかを追い求める、迫真のスポーツドキュメンタリーである。
日本の高校野球の問題点
「高校野球」は日本独自の競技であり、イベントであり、エンターテイメントだ。
欧米にも高校生が行う野球(ベースボール)はもちろんあるが、日本とはその置かれた環境や意味合いが全く違うものである。
日本における「高校野球」はメディアとの関係が強く、全国大会である「甲子園大会」が最も重要視される。
「負けたら終わり」のトーナメント戦で行われるため一戦必勝のムードで盛り上がるが、欧米では地域リーグでの開催で、リーグ戦やプレーオフといった形式で行われることが一般的だ。
そのため、日本の高校野球では選手に対するプレッシャーが非常に高く、甲子園大会では数万人レベルの観客が詰め掛ける。
また、日本の高校野球では指導者(監督)による影響力が非常に大きく、練習や試合での采配などに注目が集まるが、欧米では選手の個性を尊重し、個々の選手の発展が重視されるようだ。
さらには野球文化の違いもあるだろう。日本ではまるで武道のようにユニフォームの着方から礼儀正しい行動や所作まで厳しく指導される。
さらには日本の高校野球には、まだまだ多くの問題を抱えていることが指摘されている。
まずは選手にかかる過度な負担とプレッシャーがある。
長い練習時間や多くの練習メニューがあり、練習試合の日程も過密になっている場合が多い。肉体的・精神的な負担はもちろん、疲労による故障や過労といったリスクは常に付きまとう。
学業とのバランスや進学・就職への影響も小さくない。
多くの高校では厳しく管理された部活動により、選手ひとりひとりの個性やクリエイティビティが発展しにくい環境でもある。
「統率が取れた」と言えば聞こえはいいが、その実、選手ひとりひとりが何かを考えて動いているわけではなく、常にコーチや監督の顔色を伺いながら生活していく中で、次第に条件反射的に「はいっ!」と返事をしているに過ぎず、何も考えていない人間が出来上がっていることがほとんどであろう。
慶應高校の「革命」
こうした日本の高校野球の問題点をことごとく変えて優勝までしてしまったのが慶應高校である。
慶應高校は1916(大正5)年の第2回大会に「慶応普通部」として出場し優勝。
その時以来の107年ぶりに夏の大会を制覇した。
2016年に54年ぶりに大会を制した作新学院(栃木)を超えての史上最長ブランクである。
慶應高校は、100年以上のブランクを克服できたのは、なぜだろうか。
それは「エンジョイベースボール」を掲げ、自由なチームカラーの中で自律した集団を目指したことが最大の要因ではないだろうか。
「高校球児は丸刈り」という常識を覆し、髪型は個々それぞれで、長髪の選手も見受けられた。
丸刈りが象徴するのは旧時代的・軍隊的ないわば「野球道」のようなものである。
それが令和の時代になってもいまだに根強く蔓延っているのだ。
私自身、中学に入って部活動を選択する際真っ先に野球部を考えた。
当時はスポーツのできる子、運動に自信のある子はほとんどが野球部に入る、そんな時代である。
だが私は野球部に入らなかった。
それはまさしく「強制丸刈り」が嫌だったからである。
加えて1年生はずっと球拾いばかりやらされるらしい、という噂を聞いてしまったからである。
私はその噂を聞いて、実際に見学することもなくサッカー部を選択した。
結局サッカー部も最初は走り込みが主で、成長期に走り込みをやり過ぎた結果、腰に負担がかかり、結局夏1年生の夏には退部してしまったのだが。
丸刈り自体は本人が望んでそうするのであれば問題はない。
スポーツ刈りなどの短髪はスポーツをする上では合理性があるだろう。
問題は、強制的に、もしくは丸刈りにしなければならないという空気だったり、何も考えずに丸刈りにするのが当然としている環境そのものである。
「エンジョイベースボール」の指導方針は「選手自らが考えて行動する野球」である。
選手自身が練習テーマを設け、個々の課題を乗り越えるための個人練習も多く時間を割いていたようだ。
「エンジョイベースボール」という言葉は実は新しい言葉ではない。
昭和初期、慶應義塾大学野球部の監督を務めた腰本寿さんが打ち出した考え方で、当時から日本の野球が修行のように捉えられており、それはスポーツ本来の明るい発想に基づいてプレーすべきものだ、という考えから生まれたのだ。
「あの夏」をどう捉えるか
ずいぶん本書から脱線したが、日本の高校野球を取り巻く状況は、変化しつつあるのが現状であることを踏まえ、「あの夏」に時を戻す。
「あの夏」とは2020年の夏である。
前年の2019年末から流行が始まった新型コロナウイルスの感染拡大により、すでに2020年第92回選抜高等学校野球大会(春のセンバツ)は中止されていた。
5月20日、日本高等学校野球連盟と朝日新聞社が運営委員会の協議の結果を受け、夏の甲子園大会の開催断念を発表した。
夏の甲子園大会が中止されたのは過去に二度。
1918年の第4回大会は米騒動による中止。
米の価格急騰で発生した大規模な暴動事件の影響で大会中止となった。
1941年の第27回大会は日中戦争のため中止となり、以降5年間は太平洋戦争のため中止が継続された。
この時は地方予選大会も開催されていない。
今回2020年の中止がいかに稀なケースであるかがわかるであろう。
そんな異常事態とも言える状況で、著者・早見和真氏は2校を取材する。
愛媛の済美高校と石川の星稜高校である。
どちらも甲子園大会には何度も出場している名門校と言っていいだろう。
つまりそこに集うのは「甲子園という魔法」がかかった選手や大人たちだということだ。
小さな頃から、野球に親しみ始めた頃からずっと「甲子園」を夢見てきた。
いや、大人たちに「夢」をインプットされ続けてきたと言ってもいいかもしれない。
著者は、未だかつて誰も経験したことのない状況に対して、自分自身の頭で考え、新しい「正解」を引き出そうとしたという。
当たり前の世界が当たり前でなくなってしまう現実を前に、その現実の当事者となってしまったとき、どうやって答えを見つけるのか。
前例がないとき、どうやって答えを探るのか、どう行動するのか。
甲子園という魔法が解けた時、何をすべきなのか
本書は、突然「甲子園」という唯一にして最大の目標を奪われた高校球児と指導者の心の揺れや葛藤を描いている。
著者はその中で「あの夏の正解」を見つけ出そうとしている。
もし、「正解」があるとするならば、それは「自分自身が考え抜いて決めたこと」が正解なのではないだろうか。
周りの大人たちに忖度したり、こう応えて欲しいのだろうと先回りした回答ではなく、自分自身が納得はしていなくても、最後は自分自身が決めることが大切であり、それはその時点では「回答」でしかないかもしれないが、やがて時間が経った時「正解」になるのだろう。
多岐にわたる取材の中で、高校野球における問題点についての外部の声と内部の声とのギャップが印象的であった。
高校野球の最大の目的は「夏の甲子園大会での優勝を目指す」こととされている。
もちろん現実的に優勝を目指せる実力を備えた学校かどうか、選手の実力がそこまでの高みにあるのかといった問題はあるが、多くの、いやほとんどの高校球児の「夢」として、夏の甲子園は唯一無二の存在として、誰もが疑いようのない価値を持っている。
それゆえに高校野球は「成績至上主義」とも揶揄される。
学校の部活動でありながら教育の一環という枠を超えて、長時間の練習時間や強化合宿が組まれ、野球という競技を楽しむよりも公式大会での勝利が優先されている現状を見れば、成績至上主義と言われても仕方がないだろう。
さらには成績を上げるために、指導者側は絶対的な存在として君臨し、「圧倒的な上位下達の時代」と著者が述べるほどに常態化していた。
こうした状況から、特に外部から見ると、成績至上主義であり上位下達の、まるで軍隊のようなシステムであることを問題視されてしまう。
だが、選手たち、当の本人たちは必ずしもそう考えているわけではないという。
著者自身が桐蔭学園の野球部出身ということもあって、選手自身が置かれた状況やどのように振る舞うかといった考え方にかなり近い感覚を持っているようだ。
その上で、外部の人間には分かり得ない感覚があるという。
それは、どんなにきついと思われる練習も、やらされているわけではないのだという。
甲子園を目指すこと自体が目的化しているため、達成のための行動は、やらされているわけではなく、どんなにきつくても「自分たちで選んでやっている」感覚があるのだと。
こうした高校球児たちの「本音」はメディアで扱われることはない。
小さな頃から野球チームに入り過ごすことで、大人に対してどう振る舞えば良いかを徹底して刷り込まれているからだ。
それはテレビなどのインタビューでもわかる。
ほとんどの球児はインタビューに対して、16〜18歳とは思えないような、まるで大人のような受け答えをする場面が多く見受けられる。
自分の意見を素直に話すほどの幼さもなく、大人たちはこういう言葉が聞きたいのだろう、ということをそのまま口にしている。
それ以上でもそれ以下でもない危うさが、インタビューの受け答えに見て取れる。
一方で大人たちは、彼らに何を期待しているのか。
純粋に白球を追い続ける「青春」の汗と涙か。
監督・恩師との絆を確かめ合う熱い抱擁か。
仲間を想い、仲間と共に苦労を重ね、ついに掴み取った「夢舞台」か。
簡単に言えば「感動コンテンツ」のひとつとしての需要がある、ということだろう。
テレビや雑誌などのメディアは、プレー以外のサイドストーリーをせっせと取材し、感動コンテンツの補強材料として日々投下し続けていく。
「感動コンテンツ」自体を私は否定しない。
そうしたある種の「吸引力」がなければ、どんなスポーツも魅力が伝わらないことは大きな損失だからだ。
問題はこうした「感動コンテンツ」を作り上げる過程において、そのスポーツの良さや選手自身の気持ちを考慮することなく、搾り取れるだけ搾り取ろうとする姿勢にある。
そこに選手に対するリスペクトがあるだろうか。
感動コンテンツのために、選手自身の人生を「消費」させてはならないのだ。
本書は、そうした感動コンテンツ産業とは、少し重心が異なるように思う。
初出は新聞メディアなので、どうしても感動コンテンツ要素は必要になってくる。
だが、著者の取材スタンスは、感動コンテンツ産業を担う人間とは、やや違う立ち位置からアプローチしている。
高校球児が本音を言わない人間だということを分かった上で、どういう聞き方をしたら答えてくれるだろうか、どういうタイミングであれば話しやすいだろうかと、選手に寄り添う姿勢を貫いている。
この世界を見定めるための全く新しい言葉
前代未聞の開催中止から3年、「あの夏」を取り戻す動きがある。
コロナで戦後初めて中止となった3年前の夏の甲子園大会を取り戻す! 総勢約1,000人が参加する全国元高校球児野球大会の開催が決定!|武蔵野大学 アントレプレナーシップ学部(武蔵野EMC)
2023年11月29日(水)、阪神甲子園球場で全国元高校球児野球大会を開催。
当日は全46チームの試合を行うことが難しいため、セレモニーやノックなどの練習をし、別日程・会場で各チームの交流戦の実施するという。
新型コロナウイルスにより中止を余儀なくされた夏の甲子園大会。
それに出場することを小さな頃から夢見てきた高校球児たち。
彼らにとって「梯子を外された」体験はどういう意味を持っていたのか。
高校野球を外側から見ている者たちは感動コンテンツとしての「夏の甲子園」を求めるが故に「かわいそう」と言う。
あの夏を経験できなかった彼らをかわいそうだと言う。
私はそれは違うだろう、と思う。
かわいそうかどうかは、外側が決めることではない。
かわいそうかどうかは、本人が決めればいいことではないか。
このプロジェクトを始めた武蔵野大学アントレプレナーシップ学部3年生・大武優斗さんは「僕たちはあの夏を経験できなかったからかわいそうなのです、だから代わりになる大会を開いてください」と言っているわけではない。
彼ら「あの夏を経験できなかった」元高校球児として、当時どこにもぶつけられなかった想いに決着をつけたい、という気持ちからスタートしたのだ。
高校球児にとっての「高校野球」は、外部が思い描くような感動コンテンツとしての高校野球ばかりではない。
さまざまな背景を持った球児たちがいて、それぞれに想いがある。
本書にも、高校で野球は終わりにする、と胸に秘めたまま甲子園を夢見てきた球児たちが登場している。
野球は高校で一区切りとして、そのあとは大学へ行って、やりたいことを見つけて生きていく、と考えている者もいる。
そういう者も、甲子園という夢を追ってこの夏を最後までやり遂げる、という感動コンテンツの一部になることを捨てきれない自分もいる。
そうした、複雑な、決してメディアに載ることが無い彼らの想いに、著者はそっと寄り添い、彼らのタイミングで話せるまで静かに待ち続ける。
それは未だかつて誰も経験したことのない状況に対して、自分自身の頭で考え、新しい「正解」を引き出して欲しかったからだろう。
そうした彼らの言葉は、高校野球や部活動だけに留まらない、このコロナ禍以降の世界を見定めるための全く新しい言葉に違いないのだから。
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