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全部自分であることを認めてから始まる
苦しさの一番の理由
今まで何回か大学4年間を振り返って、自分がどうしてしんどくなっていたのか色々考察してきたけど、改めて最近、
「頑張っている自分」以外を認めない
というのがいちばんの要因だなと思う。
思えば大学生活に限らず、中学生、ワンチャン小学生あたりからずっと、「平均を超えている自分」「合格判定◯判定以上の自分」「頭がいい自分」みたいな自分像に囚われていた気がする。
そこに辿り着けない自分を責めるだけじゃなくて、周りから見える自分像に心の中でものすごく反発したり、そこから外れたらほっとしたりもした。
後者は一見自分像から逃れようとしているようだけど、そもそもこの行動自体が、その自分像をものすごく意識しているが故の行動だったなと今でも思う。
それに加えて今回は結果がついてこない(と思っている)ことのダメージもあったから、よりひどく心身に影響したんだろうなと気づいた。
「自分」は一つじゃない。
でももう一度振り返ると、その自分像だけが自分の全てではなくて、それ以外の自分も受け入れてくれる、許してくれる場所もたくさんあった。
ゼミとか、一緒に同じ道を目指していた友達とか、親友とか。家族も。
自己受容からの他者評価の受け入れ
そこまで気づけたけど、今度はじゃあどの自分なら許されるの?と思った。
でも、きっと、どの自分とかじゃなく、自分まるごと許されている。
別の場所に移動すればその分、別の自分が評価されるかもしれない。ということは、そもそも自分全体が受け入れられるのでは?ということだ。
その上で、この自分が許される環境もあるし、あの自分が許される環境もある、みたいにベースからさらにプラスされる分野が時と場合によって違う。
拒否されたら、「この人にとってこの自分は評価対象じゃないんだな。でも他の自分もいるし。」とか、自分の行動と自分自体を切り離して考えてみてもOK
ということなんだろうな。
そうは言っても、自分を受け入れるのはすごーく難しい。だって経験ないし。
だからこそ、今から「ダメダメな自分も受け入れて大丈夫」という経験を積むことにした。
だらけたい自分に従わなくても、だらけたいことには理解を示してみたり、人の言葉で凹んじゃう自分を眺めてみたり(まだこれは認めるの難しそう)。
それで、受け入れても何も起きない、何か起きても死なないと実感していくことが、きっと第一歩なんだろうと思う。
そこを許して初めて、自己成長なり自己研鑽なりが上手く積み上がっていくのだろうな。
p.s.自己受容とかよく言われてるけど、初めて腑に落ちたので書いてみたら、とんでもない長文になりました。
お時間がある時に読んでくださると嬉しいです。