アダルトチルドレンの子育てぐるぐる
自分が欲しかったものを与えたい
アダルトチルドレンの私。
33歳で出産した。
最初から意気込みがすごかった。
私はぜったいにぜったいに赤ちゃんを抱っこしまくる。大好きだよと伝えて、関心をもって、社会にでるまで寄り添うんだ。
部屋には妊娠中に用意した手作りのモビールがふたつ。紙タイプとフェルトタイプが揺れており、またも手作りしたスタイが七つほど飾って吊るされている。
布団は低反発で、沈みすぎず硬すぎないもの。そこにガーゼケットを敷いて、頭の形が悪くならないよう真ん中がくぼんだ枕を置いた。
子どもの呼吸に耳をすませ、ちょっとでも息苦しそうな音が聞こえたら顔を注意深くのぞきこんだ。おむつが濡れてないか何度も確認し、爪で顔をかいて傷ができてしまうとショックを受けた。
子どもが泣き出す前に先回りして対応していたので、始めの頃はほぼ泣かすこともなかった。いや肺を鍛えるためには泣かせてもいいんだけど。
そんな感じで基本的に24時間出動態勢で神経を張り巡らせていた。
絵本も熱心に読んでいた。保育士だったのでスキルを遺憾なく発揮して、聞いてるんだかわからん相手に情感たっぷりに読んだ。
スキンシップ遊びなど良いとされることは全部した。
ちょっとは日に当たって外の空気吸わなきゃな、とインドアな自分ひとりでは絶対にしない散歩も毎日した。知り合いのいない土地で行くあてもないので、ひたすら近所をうろうろして規則正しい生活を送っていた。
ちなみに娘は五か月で9キロに到達したため激重だった。
子どもといてリラックスできない
よく0歳は無理にでかけなくても家でお母さんとのんびりしていたらいいんだよ、なんて育児系のなんかで読んだりするが、当時ばきばきに力を入れて子どもと向き合っていた。
そのため子どもが寝るとホッとしすぎて意識を失いそうだった。
夫には「できるだけ早く帰宅してほしい」と頼んでいた。しかし、子どもが生まれてから、私と同じようにアドレナリン全開の夫は、「家族のためにもっと稼がなければ」と考えたらしく、毎日わざと残業し、夜遅くまで帰らなかった。
朝起きると次第に絶望感に襲われるようになった。
また一日が始まる。
それでも、すぐに笑顔で「おはよう」と言いながら子どもを抱き上げ、オムツを替える。そんな日々が過ぎた。
一歳半ごろ、だんだんと私以外の人間に興味を持つようになり、こんなに刺激のない環境に二人きりでいていいんだろうか?と悩み始めた。
たまたま家の近くにあった保育園が、子ども主体の自由保育の園で、元保育士の視点でじっくりみても嫌な感じがなかったので、入園を決めた。
娘と離れると解放感がすごかった。
子どもの刺激のためと言いながら、理想的な対応をしようとするあまり、子どもと二人きりでいるプレッシャーに耐えられなくなっていたんだと思う。
私の子ども時代と同じ思いはさせたくない。だからどうしてもがんばってしまい、ちょうどいい力の抜き方がわからなかった。
子どもと遊ぶ、というより、子どもに接待する、という感覚が近かった。
義務的になることに後ろめたさを感じながら、私は全力を尽くした。
子どもに理想の環境をつくりたい
自分が満たされなかったことは、必ず子どもにはしてあげたいという思いがある。
私が幼少期に封じこめた欲求は「私をみてほしい」だった。
母は私に関心がなかったので、ずっと気を引くようなことをし続けた結果、弟が生まれて全部もっていかれて諦めたという過去(ざっくり言うと)がある。
また発達が遅れていた私にとって小学校からの日々はかなり厳しいものだったのだが、周りに関心を持って支えてくれる大人がいなかったことも辛い記憶になっている。
もう一つは私のスペース。
両親が不仲で毎日ケンカが起こる。その時安心して過ごせる場所というのが狭いマンションの部屋のどこにもなかった。
だから、私は娘に関心を持ち、頼れる大人として傍にいるし、夫と仲良くするし、娘のスペースを作ることに熱心だった。
まず、娘はごっこ遊びが好きだったので、ままごとキッチンと、キッズテントを設置した。
たくさん見比べて一番かわいいと思うものを選んだ。
それらは大活躍し、これを書いてる今も横で娘がテントにもぐりこんで遊んでいる。
七歳にもなると、自分の世界の中で遊ぶ様子を大人に見られたくないんだよね、わかる、と40代の私はうなずく。
物づくりが好きな娘のために、自由に画材を出し入れできる製作スペースも作った。そこで娘がハサミやのりでせっせと何かを作っているのを見ると嬉しかった。
でも気を付けていることは、私の「してあげたい」が娘の気持ちとずれないことだ。あくまで娘が望むことをする。嫌なことは、私がいいと思っても強制しない。
心に注目して育てたい
「私を見てほしい」というのは視線を向けてほしいというそのままの意味もあるが、より本質は「私の心を知ってほしい」だ。
子どものとき私は絵を描くのが好きで「ずこう」の時間を楽しみにしていた。夢中で課題に取り組んで、できたものを得意になって親に見せに行くと必ずネガティブなことを言われる。
「まだまだだね」
「本物の木、こんなんじゃないでしょ」
親の言っていることは私の未熟な絵に対する意見で、まちがったことを言っているわけではない。でも、私の心はガスの抜けた風船状態で、ほめられるに違いないとぱんぱんだった期待がしゅーっと抜ける音が聞こえた。
勉強についていけない、運動もいまいちな私が唯一意欲的に取り組んでいたものを、認められないのはつらかった。
親は私に上達してほしくて、現状に慢心しないでほしくて言ったのかもしれない。
エスパーじゃなし、完璧に私の心をわかれというのは無理なのも分かる。
でもあの時ほめられたかった。
夫と娘のことでもめることがある。
それは大抵、夫は状況をみて物を言い、私は娘の心をみて意見するので、ぶつかるのだ。
例えば習い事に行きたがらなかった場合、夫は問答無用で根性論にもっていく。嫌だからやめるをしていたら何をしても続かないと。
私はなぜ行きたくないのか、そこを聞いて寄り添いたいと考える。
そして選択権は必ず子どもに持たせたい。
それを選んだらどうなるかの予測は一緒に考える必要があるけど、その上で自分の意思で決定していったらいいと思う。
宿題も嫌がって、始めるまでにごねる日々だが「自分で決めていいよ」と伝えている。宿題をしなかったら、こーなってこーなる、と考えたあとに渋々「やる」を自ら選択してやっている。
自分の気持ちを大切にした上で、主体的に自分の意思で生きている感覚を娘には持ってほしい。
娘はわたしとは違う人間
七歳になった娘をみて思うのは、私とぜんぜん違うな、ということだ。
私よりはるかに周りが見えているし、体も大きめで、なんにでも意欲的で、苦手意識のあるものがない。友だちや先生が大好きで、いつもケラケラと笑っている。
私は娘が小学生にあがるタイミングで仕事を辞めた。
それだけが理由ではないが、自分が小学生のときあまりにも苦労したので、どうしても何かしたかったのだ。
けど、それは必要のない心配だったかもしれない。
始めこそ緊張しすぎて手汗をかき、手のひらの皮がむけて痛がったり、トイレに頻回に行くという不安定さもあったが、すぐに友だちもできて、楽しんで学校に行っている。
その度、あー私とは違うんだな、とひとつひとつ確認している。
もしかしたら私が当時求めていたことは、娘にはそれほど必要ではないのかもしれない。
本当はうっすら分かっていた気もする。
当時私に与えられなかったものを、娘が当たり前のように享受しているのをみると他ならぬ私が癒されるのだ。
娘は私が先回りして心配しなくても、ちゃんと幸せに向かって生きる力を持っている。乳児期に目を血走らせてがんばった愛着形成もうまくいったし、あとは私とは違う人生を歩む娘が、頼ってきたときに応えられたらいい。
というかおまえががんばれ、と娘にいつか言われそう。
娘は大きな愛を持ってくれているので、母として自分の人生をちゃんと幸せに生きねばと気を引き締めている。