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母は不幸という罪悪感
母との生活はわたしにとっては修行だ。
わたしたちの共通の話題は
食べること、猫が好きなこと。
本当にそれだけ。
それ以外は見事に話が噛み合わない🈚
そして、味の好みも合わない。
今でこそ、母好みの味つけや料理を出すので
食べるようになったが
最初の1年目は
わたしの料理は精進料理と呼び、箸をつけず
スーパーの惣菜をおいしそうに食べていた。
傷ついた。
![](https://assets.st-note.com/img/1738538268-6FN9sDmRd2rZMGj5b3f8C1xo.jpg?width=1200)
基本的に、炊事・洗濯・掃除はわたしの担当で
母は細かく指摘、非難する。
そんな母の口癖はため息とともに
「大学まで行かせたのは意味がなかった」
「小さい頃はかわいかったのに。」
「ダンナに似て変わった子だねぇ」
わたしのせいで母は不幸せなんだ
無意識にわたしは思っていた。
頑張っても認めてくれない母。
母に笑ってほしくて
母に喜んでほしくて
でも認めてくれない。
物心ついたときから
母が喜ぶ顔をみたことはなく、
いつも不機嫌で、顔を歪めて
わたしを困った子、疲れる子と呼ぶ。
母がいつも不幸せなのはわたしのせい。
そういう罪悪感があった。
そして、罪悪感を消すために
自分を犠牲にしてた。
インドで一緒に過ごした心の友に言われて
ハッとした。
母親を幸せにしようって
傲慢な考え方だと。
え?!傲慢?😳私が?
最初は驚いたが
確かにそうだ。
母が幸せか不幸せか
誰にも分からない。
不機嫌そうに見えて幸せかもしれない。
ダラムサラのナムギャル寺に行く坂道には
道路脇にずらっと 物乞いたちが並ぶ。
「あの物乞いたち、自分のこと不幸だと思ってると思う?」
インド人と思しき四肢の無い彼らは
犬より身長が低い。
スケボーで移動し足で食事を食べる。
四肢がないから可哀想
なんて不幸な人生
その人の幸不幸はその人が決めるもの。
財産や見た目では分からないのだ。
![](https://assets.st-note.com/img/1738539670-0yXrsRcYwDvfEG875HAOquZW.jpg?width=1200)
インドから帰って2ヶ月したとき、友人の話と母への思いが結びついた瞬間があった。
母がいつも不機嫌で文句タレなのは
わたしのせいではない。
母が幸せかどうかは本人がどう感じてるかだ。
母は可哀想ではない。
やっと理解した。
わたしがやることで
母が少しでも笑顔になればいい。
母が幸せそうじゃなくても、
わたしの好意を拒否したとしても
わたし自身の価値はある。
大丈夫。わたしはわたし👌
母が不幸そうなのはわたしのせいではない。
顔を歪めてわたしを非難するのも
彼女の生き方なのだ。
それに気づいた時、涙が止まらなかった。
小さい頃からだいぶ傷ついて来たんだなと。
ヴィパッサナー瞑想での気づきを
外側の世界で体感した。
インナーチャイルドが癒されたのかもなー。
ナムナム