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言葉や文化が違っても、書くことの基本は同じらしい

わたしはアメリカ人と結婚している。

夫の祖母は、ある地方紙の記者だったらしい。インタビュー記事やコラムを書いていたそうだ。

結婚したときにはもう亡くなっていたので、会ったことはない。古い写真で何度か見たことがあるだけだ。

長らく、わたしにとって、この人は夫側の家族の系譜に登場する一人物に過ぎなかった。彼女が書いて暮らしていたことについては、数年前まで知らなかった。

わたしが書くことに喜びを見出すようになった頃、夫が祖母のしていた仕事の話をしてくれた。

小さな地方紙で彼女が書いていたのは、国や地方の政治ニュースでも、他紙をすっぱ抜くスクープ記事でもなかった。日々の暮らしの中でのちょっとした発見や、なにかを見聞きして心に感じたこと。社会面の一角が、彼女の活躍の場だったらしい。

この話を聞いて、わたしは急に親近感を覚えた。

もし、いま会うことができたら、話してみたいことがたくさんある。初対面の挨拶もそこそこに、「ところで日々のネタはどこから拾っているんですか」といった質問を立て続けに投げかけてしまいそうだ。

そして、先日、義母がこんな話をしてくれた。

「わたしの母はね、いつもエプロンをつけていたの。そのポケットには紙とエンピツが入っていて、なにかを思いついたり、ラジオで聞いた内容がおもしろかったときは、さっとそれを取り出してすぐにメモをしていたわ」

わたしは、この話を聞いて、一段と彼女に親しみが湧いてしまった。

実は、わたしもそれと似たようなことをしている。小ぶりのノートをいつも近くに置いていて、心が動いたときにメモをとる。

家族や友人との会話、その日の出来事、読んだ本の感想、心に生まれた喜怒哀楽の感情。

新鮮なネタを拾わない手はない。書き続けるということは、ネタを拾い続けるということだから。活きのいいうちに捌いて、調理して、自分と誰かの前に差し出す。その循環が命だ。

しかし、こういうネタ集めの方法は、古今東西、共通なんだな。使う言語や暮らしの文化が違っても、書くことに限っていえば、わたしたちはみんな同じ土台の上に乗っている。

そう考えると、なんだか、この世界がぎゅっと自分に近づいたような気がした。大袈裟かもしれない。でも、そんな気がした。

(おしまい)


読んでくださってありがとうございます。

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