”食べられてしまう”ラー油への憐憫 〜いただきますを求めて〜
「食べるラー油」という商品がある。すでに食べ物であるという認識のラー油が、重ねて、「食べる」と名付けられているところに意外性があり、注目してしまう。
この商品名を目にした時、私は自然とこう思ってしまった。「食べるラー油?あれ?ラー油って食べ物だよな?でも”食べる”って書いてあるからには本当は食べるものじゃないのか?本来はどうするんだっけ?飲むんだっけ?」
何の疑いもなく食べ物であると認識していたラー油に、”食べる”とつけられただけで、今まで考えもしなかった「ラー油の本来の姿」を考えざるを得なくなってしまった。
ここから分かることは、およそ疑いようがないと思っていることも、それが食品であれば”食べる”をつける、といった具合に、頭に動詞を付け加えることで、疑問を持つ余地が生まれてくるということである。
読む本、観る映画、聞く音楽、描く鉛筆、着る服、乗る車、弾くギター...。
一瞬「それ以外ないやろ!」と言いたくなってしまうが、よく考えれば、読まない本があってもいいし、観ない映画があってもいいはずである。
アメリカの小説家、マーク・トウェインは、古典とは何かと聞かれ、「みんなが称賛するが、誰も読むことのない本だ。」と答えた。
ここで言う古典は、”読まない本”である。これはすなわち、”ただ存在しているということに価値のある本”、ひいては、ただ単に”存在する本”ということだ。
この世には、古典を含め膨大な数の書籍がある。そして、私達はそのほとんどをタイトルすら知らないままに死んでいく。それを考えれば、普段読んでいる本を”読む本”と表現しても、あまりおかしなことではないように感じてくる。
他のものでも同様のことが言える。ブラームスの音楽が素晴らしいと言われていることは知っていても、実際に彼の曲を真剣に全て聞いている人はごく稀だろう。多くの人にとって、ブラームスの音楽は、”聞く音楽”ではなく、ただ”存在する音楽”、あるいは、”流れているだけの音楽”なのである。
このように見ていくと、この世の全てのものは以下のように分類できるように思う。「自分が直接関係を結ぶもの」と、「全く知らないか、もしくは見聞きしたことくらいはあっても、直接は関わりは持たない、ただ存在しているだけのもの」だ。
ここで、食品の話しに戻りたい。「食べる食品」という言葉は、冒頭で述べたように、当たり前のことを改めて言っているようで、違和感がある。「食品」というのが食べものという意味なので、これは当然だ。
そこで、より具体的にしてみる。「食べるサンマ」。
これでも同様の違和感を覚えるかもしれない。しかし、もう一歩踏み込んで考えてみてほしい。サンマは本来、食べものだろうか。
確かに私達はサンマを食べる。しかしながら、サンマは私達に食べられるために生きているわけではない。
彼らは大海原の中、子孫を残すために生きている。彼らの本来の姿は、いうなれば、”生きるサンマ”であり、”繁殖するサンマ”なのである。決して”食べられるサンマ”ではない。彼らは、人間に食べられるかどうかを問われるよりも前に、彼ら自身としてただ”存在している”。
上記の分類で言えば、自然界にいるサンマの殆どは後者であり、私達と直接関係を持つ個体はごくわずかなのである。
私達がサンマを食べ物と認識するのは、私達が彼らを食べるという選択をしているからである。彼らが本来的に食べられるべき存在だからではない。
同様に、他の「食品」についても考えてみたい。食べる豚、食べるほうれん草、食べる米...。このように頭に”食べる”をつけていくと、これらは、本来は食べられるために生きているわけではないという事実が浮き彫りにされていくように感じる。
現在「食品」と呼ばれているものは全て、本来は人間の食べるという行為とは無関係に生きていた生命なのである。
このように言うと、家畜や養殖された生物、また、遺伝子組換え作物などは、そもそも人間の食料とするために生み出されているのだから、その限りでは無いと思う方もいるかもしれない。
しかしながら、それらにしても、もともとはあくまでも自然界に存在していた生物を人間が管理し、捕食しやすいように操作を加えたにすぎず、巨視的に見れば、煮る、焼くといった加工・調理をほどこされているのとさほど変わらない。
人間が食べるという選択をしたからこそ発生した存在意義の湾曲と捉えれば、同じことが起こっている。
「食べるラー油」という商品名が私達に突きつける問いは、どこまでも深い。
今度スーパーに行った時は、そこに並んでいる「食品」の名前に頭の中で”食べる”と付け加えて欲しい。そして、食べることが当然では無いということを思い出してほしい。
そこにあるのは、「食べ物」ではなく、生命活動の結晶体なのだ。それらは、本来は違う目的を持って生きていたが、私達がそれを食べたいと思ったがために命を落としたのだ。
そのことをもう一度思い出してほしい。そうすれば、忘れかけていた「いただきます。」の意味を改めて噛み締められるようになるのではないだろうか。