20世紀美大カルチャー史。「三多摩サマーオブラブ 1989-1993」第8話
飛行機はJFK空港にランディングした。
私にとって三度目のニューヨークであるが、グンにとっては初である。
空港からバスに乗ってマンハッタンを目指した。
それまで滞在していたLAと打って変わって、街の空気が緊張している。
バスを降りるとストリートを歩いた。
道路の換気口から立ち上る蒸気、鳴り響くクラクションの音、時折漂うマリワナの匂い、、、まぎれもなくニューヨーク、マンハッタンであった。
我々はグンの親父さんのツテで、ロウワー・マンハッタンのアパートにホームステイすることになっていた。
アパートには、白人のお母さんと小学生の娘が暮らしていた。
我々には部屋の一角が与えられた。それぞれソファーで寝るようだ。
お母さんと娘は、アメリカン・ホーム・コメディのような「典型的な嘘くさいアメリカ人の過剰コミュニケーション」のやり取りを延々と続けており、我々は苦笑いをしていた。
とりあえず荷物を置いて、その日は眠った。
翌朝、寝たら絶対に起きないグンを尻目に、私は一人で街に出て、街のキオスク・スタンドで『ヴィレッジ・ヴォイス』を買った、要するにニューヨーク版の『ぴあ』である。
部屋に戻って、『ヴィレッジ・ヴォイス』を隅々まで読んだ。
すると、とある広告が目に飛び込んできた。
「マイルス・デイビス in インディゴ・ブルース」
私は目が飛び出しそうになった。
(マ、マイルス~っっっ!!!???)
日付を見ると、なんと明後日であった。
しかも、「インディゴ・ブルース」は所謂「ジャズ・クラブ」である。
マイルスをそんな小さな場所で観れるなんてとんでもない話であった。
私は寝ているグンを叩き起こした。
「おい!マイルス、マイルスやるぞ!!!」
グンは寝ながら「お、そうか~、、、」と言ったきり動く様子はなかった。
私はさらに記事を読み込んた。どうやら今日、ライブハウスの窓口で整理券を配布するとのことだった。
私はグンを部屋に置いて、一人でインディゴ・ブルースへと向かった。
発券の1時間前に着いたら、私の前に一人だけ並んでいた。
1時間待ち続けて、ついに窓口が開いた「2番、3番」が我々の整理番号であった。
「地に足が付かない」とはこのことだろう。
私はフワフワとした、夢の中にいるような足取りで部屋に戻った。
ひとまずマイルスのことは置いておいて、
日中、我々は美術館巡りをした。
こう見えて我々は「美術大学」の学生である。
我々はまずグッゲンハイム美術館に向かった。フランク・ロイド・ライト設計の名美術館である。
着いてみると、なんと『エドワード・ホッパー展』である。我々は「アメリカ大好き!ホッパー大好き!」な二人組であった。
我々は大満足した。
次に向かったのはMoMAであった。
大学で勉強した現代美術の現物が、所狭しと陳列されていた。
それから中華街へ行き、極上の台湾料理を食した。
中華街では、白人観光客が超ビビりながら観光をしていた。
そんなうちに、ついに「マイルス」の夜がやって来た。
我々が会場に着くと、すでに十数人が列を作っており、中からファースト・セットのマイルス・バンドの音が漏れてきた。
「やべ~!!!!」と呟きながら我々は整理番号順に「前から二番目」に並んだ。
開場とともにライブハウス内に歩をすすめ、我々は「最前列ど真ん中」の席を陣取った。
50センチ先はステージである。
しかも、ステージと客席との段差は3センチ程だ、
緊張した私はトイレに行き、隣の白人男性に話しかけた。
「ファースト・セットいたのか?どうだった?」
「凄かったぜ!」
「マイルスはグレートだからな」
「そうだ、今現在もグレーテストだ」
緊張のピークを迎えながら、我々は最前列で「神」の降臨を待った。
そして遂に客電が落ちた。
ステージ向かって左側の扉が開いた。
逆光の中、遂に「あの!!マイルス・デイビス!!!!」が我々の前に姿を現した。
両脇に大柄で屈強な黒人ボディーガードを従えて登場したマイルス、
「ち、小さい!?」
身長は160センチほどしかなかった。
そして上半身はガリガリに痩せ、お腹だけがポッコリと飛び出していた。
「捕獲された宇宙人!?」
それが「数々の伝説に彩られたジャズの帝王」の第一印象だった。
そのまま、マイルスは我々の目の前に来た。
50センチ先にあのマイルス・デイビスが居るのである。
正直、怖すぎて顔を見ることが出来なかった。
バンドは、ケニー・ギャレット、ケイ赤城、そしてドラムは「チャック・ブラウン」のバンドに居たリッキー・ウェルマンである。
1曲目が始まった。
完全に「GO-GO」である。
「GO-GO」とは1980年代にから90年代初頭にかけてワシントンDCで一世を風靡した、ラップとファンクとジャズを掛け合わせた当時最先端のブラック・ミュージックのことである。
「GO-GOの王様」チャック・ブラウンのバンドから引き抜かれたリッキー・ウェルマンを中心に、バンドが「GO-GO」グルーヴを高める。
そこへ遂に満を持してマイルスが吹いた。
マイクはあったが、50センチ前である。
つまり、我々は「マイルス・デイビスの生音」を聴いたのである。
そこからは、どんでもない世界が繰り広げられた。
世界最高峰の高度なテクニックで、世界最高峰のグルーヴの音楽を奏でるのだ。
マイルスは時折シンセサイザーのところに行き「ぴゃ~♬」とヘンチクリンなコードを鳴らした、TVで何度も見たことあるシーンである。
私は座りながら踊りまくった。
「これはダンス・ミュージックだ」という強烈なメッセージを感じ取り、「客としての使命」として踊り狂った。
50センチ先にはマイルスが居た。
踊りながらも、足を引っかけないように自分の脚は入念に折り畳んでいた。
定番『タイム・アフター・タイム』のカバーも、『TUTU』も演った。
何というか、変な例えだが、「音楽とSEXしている気分」であった、それも世界最高峰の超テクニシャン相手に。
アンコールを終え、我々は夢見心地にあった。
「ものすげえ!!!!」と普段冷静なグンは完全にイカレていた。
(※註:我々が行く約8か月前の、同じく「インディゴ・ブルース」でのマイルスのライブ)
我々は夢見心地のまま、ホームステイ先の簡易ベッドで眠った。
翌朝から、グンは彼の兄の住むボストンに行った(※筆者註:後日、そのグンの兄に日本で会った際に、その時の話になった、「アノ時は、グンは”マイルス!”、”マイルス!!”ってずうーっと騒いでたよな!」と兄は言っていた。一方、日本に帰った私はすぐに安物のトランペットを買った)。
さて、グンがボストンに行き、一人マンハッタンに残った私は、深夜にロウワーマンハッタンのレゲエ・クラブへと向かった。
無人の倉庫街を一人でテクテクと歩いていると、灯りがポツンと見えた。
「アイランド・クラブ」
その重い鉄の扉を開けると、無数のジャマイカ系黒人がレゲエ・ミュージックに身体を揺らしていた(一人だけ、日本人の「黒人大好き女子」がフロアの真ん中で踊っていた)。
時間がたつにつれ、どんどん客は増えてきた、完全に「真っ黒」である。
フロアには、物凄いディープな「DUB」が流れていた。
私はDUBを聴くたびに芥川龍之介の『トロッコ』を思い出す。
あの、夕暮れに一人で取り残された焦燥感、、、
小さな心に刻み込まれた恐怖、、、
ありありと我がことのように蘇るのである、、、、
と、我に返ると目の前では無数の黒人がうごめいていた。
日本人男性は私一人である。
時はコッチ市長時代のNYのロウアー・マンハッタン、治安は最悪である。
さすがにかなり危険な状況にあることを冷静に感じ、そそくさと店を出た。
そして、やってきた帰国の日。
相変わらずマイペースのグンのおかげで、我々は間違ったメトロに乗り、
それを取り戻すために空港行きのバスに乗った。
バスはマンハッタンを離れ、「ブロンクス」地区へと入って行った。
世界に悪名を轟かす、全米一治安の悪い地区である(筆者註: ポール・ニューマン主演の映画『アパッチ砦ブロンクス』に、この時代のブロンクス地区の極悪さが描かれている)。
街の景色はどんどん荒れ果て、気が付いたらバスの中は黒人さんばかりであった(この旅「3度目」の「黒人さんだらけ」である)。
陽はどんどん暮れてきて、それがまた荒れ果てた街並みと妙にマッチし、廻りは黒人さんだらけ、、、
私は「終末観」に苛まれてきた(筆者註:「あの時のオマエ、スゲエ目つきしてたぞ!笑」と後でグンに言われた。全く呑気な男である)。
空港には着いたが、我々はJFKからの帰りの飛行機に間に合わなかった。
「こりゃマズい!否、マズ過ぎる!!!」
と、私は空港に着くや否やTWA航空のカウンターに飛び込んで、必死で状況を説明した。
幸運にも優しい窓口のお姉さんは、何とか最終便の席を確保してくれた。
その瞬間、
「オレ、窓際席で!」とグンが言った。
私は「黙れ!」と言うや、窓口のおねえさんに「いや、すみません、どの席でもいいです!We Love TWA!」と言ったら、おねえさん笑っていた。
その後も、ことあるごとにグンには振り回されるのだが、ヤツの才能の凄さを知っている私は、まるでマネージャーの様にいつも世話を焼き続けるのである。
(つづく)