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ローマ帝国とポルトガル(5)社会―自由人と奴隷
00.はじめに
ここでは、ポルトガルの歴史についてお話しした際のメモ書きを公開しています。今回はローマ時代を扱った部分です。なお、メモ書きは、アンソニー・ディズニー著『ポルトガルとポルトガル帝国の歴史』に基づいて作ってあります(ほぼ翻訳になってしまっていて、反省ですが)。関心のある方は、Anthony Disney, A History of Portugal and the Portuguese Empire(2009)をご覧ください。
前回までに、現在ポルトガルと呼ばれる地域において、ウィラやカザウを通じた生産活動が活発化し、さらにはローマ帝国自体を支える鉱業が発展していたことに言及しました。
前回の記事
今回はそうしたローマ帝国に支配されていた現在のポルトガルと呼ばれる地域の社会について言及します。
ローマ帝国統治下の現在ポルトガルと呼ばれる地域の社会
現在のポルトガルと呼ばれる地域は、ローマ帝国に支配されることで、これまで以上に社会の流動性が高まりました。
商人や専門家などはイベリア半島中、あるいはイベリア半島とローマ帝国のその他の地域を行き来できました。
また、ローマ帝国の兵士などは、さまざまな地域で任務に就いき、しばしば生地を離れて定住しました。
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コンピュータが読み取れる情報は提供されていませんが、MatthiasKabelだと推定されます(著作権の主張に基づく) - コンピュータが読み取れる情報は提供されていませんが、投稿者自身による著作物だと推定されます(著作権の主張に基づく), CC 表示-継承 3.0, https://commons.wikimedia.org/w/index.php?curid=192350による
それから、仕事を求める労働者はより繁栄した場所に移住していました。例えば、現在のポルトガルの東部に、現在のスペインから集団移住して、鉱山で働いていた形跡があるといわれています。
さらに、奴隷はとくに労働力が必要な場所に送致されていました。そして、こうした人々の移動が活発になった結果、人々は徐々に部族よりも、ローマ帝国の住民であるという意識を高めていきました。
では、ローマ帝国が支配したポルトガルはどのような社会だったのでしょうか。
基本的にローマ帝国社会の住民は、大きく自由人と奴隷に分けられました。
自由人には、特権階級である元老院議員や騎士、都市参事会員、そして下層民の一部として平民と解放奴隷が含まれました。
一方、奴隷はこうした自由人とは区別されました。奴隷は法律上、「もの」に分類されていました。
後1世紀末までには、現在ポルトガルと呼ばれている地域の全人口は100万人程度にはなっていたと言われます。それらの住民も自由人と奴隷に分けられていました。
01.自由人
もっとも、現在のポルトガルと呼ばれる地域にいた自由人については研究が進んでいないとされます。自由人について当時の文献に言及が少ないためのようです。
そのなかで、多少研究が進んでいるのは、エリート層に関わる部分だとされます。
歴史家のディズニーによれば、現在のポルトガルと呼ばれる地域にいた自由人は、前回述べたようにローマ帝国様式の都市が建設(あるいは再構築)されていくなかで、それぞれの都市でエリート層を形成するようになったようです。
エリート層になったのは、市民権を得た現地出身者やイタリア半島からの移住者だったとされます。かれらは紀元後二世紀後半くらいになると、都市の有力者としてふるまうようになっていたようです。
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Por Desconhecido - User:Bibi Saint-Pol, own work, 2007-02-08, Domínio público, https://commons.wikimedia.org/w/index.php?curid=1973977
紀元後二世紀後半の記録には、都市で成功した人々が神殿や劇場、浴場そして記念碑の建設を後援していたことが記録されているといいます。
それだけでなく、より野心的なエリート層の中には、権威を求めて、属州の主都やローマ市に移動する者もいたとされます。そうした人物の中には、最終的に元老院議員の地位にまで登った者もいました。つまり、ローマ帝国で最も権威のある地位に就いたわけです。
02.奴隷
ローマ帝国の支配がはじまる前から、イベリア半島には奴隷がいたと言われています。また、ローマ帝国がイベリア半島を征服していく中で、現在ポルトガルと呼ばれる地域に生きたルシタニ族などが捕虜となり、奴隷となったことも大いにありうることです。
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Pascal Radigue - 投稿者自身による著作物, CC 表示 3.0, https://commons.wikimedia.org/w/index.php?curid=4966082による
後1世紀、現在のポルトガルと呼ばれる地域では人口の三分の一が奴隷で構成されたていたと考えられています。
現在のポルトガルと呼ばれる地域の奴隷は、現地住民が奴隷になったケースやさまざまな場所から運ばれくるケースがあったようです。奴隷は、戦争による捕虜、貧しい両親に売られるなどすることもありました。
奴隷になった人々は、ローマ帝国の重要な労働力となっていました。奴隷は、農業や家事、交易、中央政府や地方において行政サービスにも携わりました。なかには、高い教育を受けた奴隷もいて、教師、医師、会計士、あるいはアーティストなどとして活動している場合もありました。
もっとも、奴隷は、基本的に動産だと考えられていました。つまり、所有物だったのです。そのため、所有者が命令するところに従って生活し、働かざるを得ませんでした。また、奴隷は自分の財産を所有できず、法的に認められた家族も持てませんでした。
ただし、奴隷はたいていなんらかの報酬を得ていたので、その報酬で自由を買い取ることを許されていました。自由を買い戻した奴隷は、解放奴隷といいます。
解放奴隷のなかには、やがてビジネスで管理職について、何世代かの間にエリート層に成り上がる者もいたようです。当時の記録には、解放奴隷が現在ポルトガルと呼ばれる地域で商業、鉱山そしてさまざまな職で活躍したことが記されているといいます。
ローマ帝国とポルトガル(6)につづく