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死ぬために生きる
今日はちょっと賛否あるかもしれない話をしようかなと
訪問をしていても、病院で働いていても感じることなんですが
なんでみんなないものばかりに目を向けるんだろうって
今あるものに目を向けた方が幸せなのにって思うです
そんな話をしようかなって思います
もう諦めました
「これ以上病気が治って元気になるわけでもないし、お酒が飲めるわけでもないし、みんなとどこか行けるわけでもない。何もできないならもう諦めるしかない」
と訪問看護で言われたことがありました
その人は肺炎で、食事もあまり食べれず、体力が落ちてきた方
まぁ確かに元々元気だったと思います
徐々に食事も食べれなくなり、痩せほそり、リハビリも結構大変そうです
それを実感しているその人は、食事が食べれない、動くことができない
といったできないことに目を向けてしまっているんです
そうすることで、生きる希望がなくなりそういう意味で、「もう諦めるしかない」とう言葉になったようでした
生きる目的はライフステージで変化している
僕だけかもしれませんが、年齢やライフステージとして生きる目的っていうのは変わってくると思うんです
というかそう僕は看護学で教えられた気がします
そう
それはこの人にとって、
生きるということは、元気に活発に病気がなく苦しまずに生きる
という意味で捉え続けているために、諦めるや辛い、苦しいというギャップに苦しんでいるように見えたんです
なので、諦めてしまうと、今できないことばかりを見てしまいできることがどんどんと無くなっていってしまう
食事が食べれないから、食べることを諦める、そうすると筋肉はどんどんとなくなり、もっと動けなくなっていく
肺炎を悪くしやすくなるし、食事を取らないと腸内細菌の活動もかなり低下します
なので免疫機能が著しく低下して、感染しやすくなり、他の病気になりやすくなります
そうすると、今はまだ選択肢として残っていた家族と食卓を一緒にするなどができなくなり、本来残っていたはずの選択肢たちがどんどんと無くなっていって
最後は1人で苦しみながら死んでしまうといった選択肢しか残らなくなってしまうかもしれないんです
生きるための選択肢
僕が言っている選択肢というのは
ウェルちが会議で、僕が健康と感じるための定義として
「生きるための選択肢を残すことが大事」と言っていたものです
僕がいう生きるための選択肢というのは、幸せに生きるためにという意味です
生きるというのは、生物学的に生きているというわけではなく、人間的に社会的に生きるという意味です
確かにできることは減ってしまって、ただ生きているだけの日々だとは思います
けれどそれを今思ってしまうと、そこから生きることってとても苦しいものになってしまうと思うんです
セロトニン的幸福を保つことができなければ、オキシトシン的幸福は得ることができずっていう話はここでも通じるわけです
死なないように生きるから死ぬために生きるにマインドチェンジ
先ほどライフステージによって生きる目的は変わると言いましたが
そう考えるためには今まで話してきたことを知っていることが大切なんですよね
なので、ここまで読んでいただいている方は、このマインドチェンジについて腑に落ちやすいかと思います
基本的に、現役世代の人たちは死なないように生きますよね、より幸福に感じるように生きたり、わざわざ死なないようにしますよね
でも、年齢が進むにつれて体力も落ちてきて、病気を持ったりすると徐々にできないことが増えてくる
でもその中でも、できること、今自分にできることってなんだろうって思うことで
より自分らしく生きることができるんです
なので、よりよく自分らしく最期を迎えるためには今どう生きればいいかを考えることで
どんなに病気になろうとも、どんなにできることが減ろうとも自分らしさを忘れずにいられる
まぁそんなこと考えてるとですね、なかなか死ぬのって大変だなって、そして生きるって大変だなって思うわけです笑
だから幸せそうに生きている人でも
「なかなか死ねないんだよな」
っていう人もいたりするんで、この人もそうなれたらいいなって思いますよね
そして、これを今の僕ら世代の人や現役世代の人たちにも知ってもらいたい
自分らしく、どう死にたいかを今から考えてもいいわけです
終活まではいかなくてもね
明日死ぬかもよ?
そう思ってたら、元気に楽しく暮らせるかもね!