サブカル爺はサブサブカルチャーをめざす
カセットやビデオのテープの録再時。アナログフィルムのように現像つまりリアルへの定着にラボラトリーおよびスタジオなどでのワンクッションの一手間があり時間がかかるのが当然だとしたら。その定着で原稿をズラしたりすればコピー機アートなどとしょうせるし歪んだ画像がたのしいし。なにより同席のみんなでもりあがれる。カセットやビデオなどのアナログはもちろん。デジタルでも編集加工やリミックスリマスターをするとすればワンクッション置くことになる。ひとつたとえを言えば初期ipodにおける母艦としてのパソコンの絶対的存在感。iphoneの今ではないのが当たり前だがあれはあれでなかなかおもむきぶかいものだったのではないだろうか。つまり何本ものカセット何枚ものレコードcdをコンポのターンテーブルやミキサーそしてデッキはたまた二台のラジカセでのピンポン録音を介させて一本のミックステープにミックスするという手間をあえていったん経る。それがビデオ映像ならば。それこそが映画というものにほかならないという事実。つまり誰もが必然的にdjそして映画監督にならざるをえない。プチdjプチ映画監督になれるささやかな喜びと強制。定着に時間がかかることでの自分から自分へのプレゼント感。待つワクワク。おもわぬ結果をバグを楽しみにも出来る。aidjによる全自動ミックス。たしかにaiが吐きだしてくれるトンデモな結果。これもバグだとしておもしろがれるにはがれる。手間を無駄をマイナスとしないであえて楽しみ味わう。fm情報誌で調べエアチェックする。オリジナルイラストでカセットテープインデックスカードを自作したり。つまり何が言いたいかというと。ラジカセやコンポが母艦としてあったからこそカセットウォークマンもかがやいたということ。一人ハウスパーティーでダンスダンスダンス。ではそれでウォークマンの方への愛着ばかりが深まるのかといえばそうばかりではない。母艦の方のラジカセおよびマイカセットライブラリへの愛着だって深まるのだ。売れなかった私のような糞ミュージシャンの糞ボツデモテープ。つまりゴミへの再評価。地味な裏方に徹すれば徹するほど母艦が愛おしくなる。そこでは作品は常に途中経過であり完成というものはない。逆に子機的なウォークマンやアイポッドは中古やシェアでもいいのだとさえ思えてくる。だから事実ことごとくアプリ化を遂げシミュレーションになっていっている。サブスクも確かに魅力いっぱい。でも散らかったカセットテープ周辺のローファイで中二なサードパーティーフォースパーティーなエコシステムも悪くない。パーティーっていうぐらいだから仲間だってできるかもしれない。そのひとつがハウスミュージックカルチャーシーンだったのだから。そんな雑多な生態系だからこそホソボソと延命できるし。生きた化石や奇形生物としての。昔どこの町にもいた変な趣味オジにもなれる。