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*1 日本移住

 夏の余韻立ち込める溽暑じょくしょの東京に足を着けた晩から、熊本、愛媛、奈良と渡り歩いてようやくこの気候に体が慣れて来たなと思ったら、すっかり秋の朝涼あさすずに身を震わして目を覚ましたのが長野、ここは地元である。動いても止まっても汗で服をべたべたにするをやっとの思いで甘受かんじゅしたのが遠い昔の事の様に思われたが、実際はほんの一週間と経っていなかった。
 
 物語り始めれば果てしなくなるから熊本だ愛媛だの話の大部分は割愛するつもりであるが、一週間ばかりかけて其々それぞれの地に思い出をこしらえて回った。ドイツで過ごした激動の八年半に対する慰安旅行の様に読み取って貰えれば幸いである。満喫はした。贅沢である。それと同時に感覚の擦り合わせにもこの旅行は一役買った様に思われた。
 
 日本の気候に体を慣らす必要があったのは前述の通りであるが、日本の社会を歩く上でも、すっかりドイツ色に塗り変わっていた感覚を慣らす必要があった。具体的にこうだああだと課題をつまめる様なものでも無い。ただ肌で抽象的に感じるのみである。具体的に抓み挙げられないからいい加減な物言いにも思われそうであるが、それが出来ていればして問題にもなるまい。自分でも判然とし切らないから感覚の話なのであり、感覚の話だから抓めず擦り合わせるのである。これが案外に時間の要る作業だなと思った。
 
 
 呑気な旅を終えて地元に戻り、さて生活を営もうかとすると尚一層深い日本の社会生活に触れることになった。そうすると第二段階目の擦り合わせに自然到達する。余所から見れば帰郷でも、当の私にとっては存外にも移住の如くに感ぜられていた。ドイツでの八年を経たのち、今度は日本という国へ移住した流浪人るろうにの心情であった。居場所という観点で言えばウィーンより他に未だ何処に行けば安心するんだか要領を得ない。ドイツを出てロシアに移っていたにしても然程変わらない心持で生活感覚の擦り合わせに励んでいたに違いなかった。
 
 そうは言っても祖国であり故郷であるから或る程度の希望を持って計画を練り、筋道を望んで来た積でいても、思いの外物事を進めるに梃子摺てこずる事が判明すると、そこでまた個人的な計画と気持ちの立て直しが必要になった。こればっかりはいざ来てみなければ判らない事であったから覚悟の上であったにしても、程度の大小の点において誤算であった。
 
 
 いや然し移住とはそういうものである。単身ドイツに渡った時と比べれば頼れる手も多少ある。応援してくれている友人もいる。何より言語に不自由しない以上、話の通じない事もそうそうあるまい。また六ヶ月の語学学校期間を経ずに済むというのも大きく異なる点である。そう考えると、今、時の進みが鈍行に感ぜられて齷齪あくせくがっていても、元より移住に際しての六ヶ月分が浮いている状態であるから、執拗に焦る必要も無いのかもしれない。社会を外れて風来ゝゝふらふらとしていると言っても、これでようやく一ヶ月間に達する程度だと事実に目を向ければ、目を見張る様な怠惰でもあるまい。先ずは土壌を耕さねば種も蒔かれない。先ずは基礎を据えなければ土台も敷かれない。
 
 
 父の実家が殆ど空いているというから、伯母に斡旋して貰ってそこに転がり込んだ。ドイツから送った荷物もそこに放り込んだ。さあ我が身も身の回り品も屋根の下に合流したからこれで生活が整った、と言えるほど単簡に物事はならされるものでも無い。雨風が凌げれば生活だと言うなら雨宿りに入った軒下でも一月と暮らせねば筋が通らない。物の不足は構わない。交通の不便は納得済みである。生活を生活と呼ぶに必要な物の最たるは生活リズムの生成である。それが一二の三で済むのは人に言われた様に動いていれば飯が勝手に口の中に入って来る者ばかりである。
 
 そうして生活を立て直してようやく先の展望に目を向けられるというものである。これは実際この二週間余の内に自分の頭で気が付いた事である。足元が不安定な状態で双眼鏡を除いても、大きく見えた遠くの景色がぐわんぐわん揺れてかえって不安が煽られる。足場がある程度落ち着いておらねば視線も真っ直ぐ通らない。手元の不足は何とでも仕方がある。おまけにここは日本である。日本語話者が日本にいて何ともならなくなっていれば私のドイツでの格闘の日々も霞むというものである。手元の不足は何とでも仕方があるが、その為にも落ち着いて作戦を練られる足場が要る。それで私もそれなり自分の頭で先の事を考える事が出来るようになったのが直近の一週間であった。不安が無くなったのとは違う。

 それで私は一先ずパンを焼くに必要な材料を取り揃えてみた。腕があっても粉が無ければパンにならない。それが水曜日に届くと、翌日になって一通り材料を眺めてみた。ドイツで触っていたものとの差異を目視した後、母の持つ小工房に入ってその材料を実際に使ってパンを焼いてみた。実に一ヶ月ぶりにパンを焼いた。この欲求ばかりは替えが利かないからうずうずともどかしかった。
 
 母の構えた工房が車庫の奥にひっそり在る。最近出来た設備の様な気でいたが、聞けばもう十七年とそこに在ると云うから驚いた。工房と言っても私がドイツで働いていた工房とは環境が異なる。設備も異なる。そうすると己の動く勝手も自然異なる。異なれば擦り合わせるまでであるが、擦り合わせるのも一度や二度ではいかない。
 
 粉が届いたから試しにゼンメ※1ルでも作ってみた。家庭用のニーダーですら懐かしい。ドイツに住んでいた頃に私も持っていたが、一度壊れたのを機に手で捏ね始めたら何を捏ねるにも手の方が良い様に感ぜられて、それきりニーダーの事は最後人に譲る迄すっかり眼中から外してしまっていた。
 
 使ってみると無論楽であった。腕は楽だが、苦しそうな機械音やらボウルの中で捏ねられてるんだか撫でられてるんだか判然としない生地を見る親心やらが気になって、挙句あげく何時まで経っても満足のいく捏ね上がりにならない様に思われて歯痒かった。
 
 それで最後は手で捏ね上げて、その後の成形は目を瞑りながら小指で片付けると、天板に乗せた生地を発酵器に入れた。ドイツの職場では発酵室、ドイツの自室ではオーブンに湯を沸かして代用していた私であったからこれはすこぶる最適に思われた。とは言え発酵の進む具合も環境で大きく異なるものである。いささか進みが遅い様にも思われたが、それで言えば発酵器のみならず使用するイーストも生イーストからドライイーストに変わったわけであるから要因の一つである。
 
 また自ずからオーブンも異なった。大きい点は風扇ファンが付いている事である。蒸気の必要なパンにとってオーブンの中の風は天敵である。すなわち風扇のあるオーブンでドイツ式の小型パンを焼くには一工夫凝らさねばならないのである。
 
 
 くしてゼンメルは納得のいくように焼きあがらなかった。とは言えオーブンが悪い、材料が悪いといい加減に投げやって仁王立ちする類のマイスターに成れなかった私は、其々それぞれ原因を解明した後、翌日になってまた彼是あれこれと試して、その都度是彼これあれと課題を導き出した。
 
 
 土曜日の朝は四時に起きた。プレッツェルを焼いて地元の催しで母の横について売る為である。週の始め頃に知ったくらいの全く予想だにしていなかった足掛かりであるが、“思った通りにならない”という想定外の出来事は必ずしも悪い方角に進むものばかりでも無さそうである。ドイツで幾らパン屋に勤め、自室に籠ってパンを作っていても、作ったパンを売るという行為に届かずにいた私であるから、こうした一歩を積み重ねるより他に進み方もあるまい。今はそう思う。パンは良く売れた。私の事も少し知って貰えた。

 進む速度が思いの外遅いのであれば、その一歩を慎重に踏み込み、その着地点を固く踏み固め、己で納得しながら進むのみである。遅くも速くも地の道を踏んでこそ景色が移ろうというものであろう。折角せっかく進みが遅いのであれば、その分頭をぐるぐる回して辺りをよく見ておくがいい。日本へ渡って最初に片付けべき課題は思い返せばこれであった。今歩く道には今歩かねば見えぬ景色が広がっている筈である。夏は過ぎたかな。
 
 
 


※この作品では一部実在しない表現/漢字を使用しています。


(※1)ゼンメル:小型パンの総称。特に南ドイツからオーストリア。ここでは小麦の小型パンを指している。

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