*48 土の中、木の剣、蝉の声
もうずっと前の事である。見習い宮大工として日夜汗水垂らしていた私は、二年目だかの頃に広島県は西条市にある御寺の現場に配属された。先輩大工や上司と一つ屋根の下で共同生活と労働をしては、二週間に一度当時住んでいた社員寮に帰ってきてようやく気が落ち着く、というようなのを何ヶ月と続けた。今やれと言われたらなかなか縦に首は振れない。上下関係というものとも随分疎遠になった。
記憶は曖昧であるが、その現場での楽しい思い出もあれば辛い思い出もある。たしか諸先輩方に誕生日を祝ってもらった覚えもある。いや、あれはもっと後の出来事か。はたまた別の現場での出来事か。実に曖昧である。然し一つ、その御寺の図面よりも、また西条市の酒の味よりも明白に記憶している場面がある。それは敷地内に立つ木にとまって鳴く蝉をじっと観察していた或る日の昼休憩の事である。
夏の暑い日、昼飯を食って午後の始業までまだ時間のあった私は何と無しに敷地内をぷらぷらと歩いていた。ふと、蝉の声が気になる。耳障りなわけではなく、ただ一度耳に留まるとそれ以降はくっきりとした形を持って耳まで届く。そうしてその声を聞いている内に「はて、蝉は一週間と限られた命を使ってまで何をそんなに鳴く必要があるんだ」と気になった。気になって調べると、あれは求愛行動なんだと知った。授かった命の限り求愛をするとは実に生物的浪漫質である。
然しその浪漫質な求愛行動の果てに何があるかと言えば子孫を残す事である。即ち一週間と限られた時間で、彼らは子孫を残す為だけに精魂尽くしてみんみん鳴くというわけである。人間のシンガーが声を枯らすのとは訳が違う。当時の私はそれをきっかけにして命についてじっくり考えてみた。蝉の生き方こそ洗練された、生物の何たるかである様に思われた。
見方を変えれば実に寂しい。労働が無い代わりに娯楽も無い。自由も無ければ不自由も無い。ただ命を授かった個体として、脈々と受け継がれてきた種族血縁を絶やさぬ為の繋ぎ役に他ならない。個々の意思も感情も無く大変無機質の様であるが、地球に暮らす生物として立派に役目を果たしている。我々人間は生まれながらにして名を与えられ、その瞬間にヒトから人間になる。人間の世界も元来生命的無駄を削ぎ落とせば蝉同様の生涯になるはずで、即ち少子高齢化が進む昨今、命の循環を妨げる誘惑が余りに多過ぎ、ヒトとしての生物的役割がみるみる希釈されているのだろうと、そう、広島の現場で考えていた。
その序でにもう一つ面白い事を知った。蝉の寿命は一週間程度かと思っていたが、その実、土の中で幼虫として七年と過ごした後の成虫としての一週間だという。ここまで知れば前言撤回で矢ッ張り人間のシンガーと同様にも思えてくる。日の目を見ない下積みの末、華やかな舞台で脚光を浴びれば、確かにそこで枯らされる声は或る種求愛の意を含んでいるのかもしれない。
さて、私も絶賛土の中である。土の中では餌は運ばれてこない。目の前の土を掻き分け掻き分け進み餌を探す必要がある。それも何処に餌が埋まっているかなど分からないから手当たり次第に掻いていく。その掻いた爪が何処で何に引っ掛かるかは掻いている本人も分からない。
今週の水曜日、私はとある人物に呼ばれ道の駅に併設されたカフェへと出向いた。不断は朝一に訪れるカフェであるから昼過ぎに来るは珍しく、昼時ともなれば噂通り駐車場は一杯であった。車を停め、カフェの方へ向かう。スマートフォンを見ると、先方はもうすでに着いているらしく、何処其処の席で待ってますと連絡が入っていた。
この日の話は、先方が営む宿で私のパンを朝食に使わせて貰えないか、という相談であった。概要については事前の連絡で把握していたが、この日実際に会って詳細の話を詰めた。何でも私が焼くプレッツェルを彼自身が気に入って食べて下さっているらしく、それで是非と白羽の矢が立った。それで結局、来週に一度実際に持って行ってみるという運びとなった。無論、私の方では前向きな返事である。
話は二時間近く続いた。続いた、と言ってはこの場合堅そうな印象を抱かせそうであるが終始和やかであった。彼とは殆ど初対面であったから、先方の宿のコンセプトや朝食の形式等を聞いたり、こちらも経歴や利用出来そうな手の内を見せた。地元と言えどまだまだ知らぬ人も知らぬ世界もある、と改めて思った。もっとも中学を卒業してから去年帰国するまで地元に殆ど居なかった私が“地元”で知っている人や知っている世界の方が少ない。だから殆ど余所者だと自負するのである。
然しこうした話が知らぬ世界から唐突に飛び出して来る事が目立つ様になってきた。まさに土の中、掻き回す爪に餌が引っ掛かったくらいな感覚で、驚くとも言わないが、少なくとも「ああ爪がこんな良い所に引っ掛かった」と、その偶然ぶりが不思議で面白い。ふるさと納税の発注もまたあった。先日カフェに来たという人からの個別注文も入った。さらには全く予想だにしていなかった企業から出店の御誘いもあった。全くもって何処で引っ掛かるか分からない。これが明白にならない以上、矢張り私はまだまだ土の中で下積み中という証である。
そうした御誘いに加え、自ら出向くイベントもあれば週に一度のカフェもある。忙しいのは良い事であるが、どうも時間と体が足りない。この辺りをなるべく誤解を生まぬ様に喩えると、現在の私は布製の戦闘服に身を包み、木製の盾と剣を装備して冒険している戦士である。木製と言えど扱いには慣れているから小さな敵くらいならあっさり撥ね退けるが、その装備でボス戦挑むとなれば大変骨が折れる。骨も剣も折れる。一度の攻撃が微塵の打傷しか与えられなければ、何千何万回と地道に攻撃を繰り出し、その間相手の攻撃を必死で耐え凌ぐ、という気の遠くなる様な戦闘しか出来ない。今の私はまさにそれで、即ちイベント出店などに際し大量のパンを焼く場合、それを敵大将だとするならば、初期装備では一度の攻撃で作れるパンの数は僅かで、作業時間を長めに設ける事でどうにか体力を増やして堪える、ということである。
今週末もカフェにイベントと立て続いた。一日二十四時間しか持っていない私は、こうした場合には単純に寝る時間や生活的時間が無くなるわけであるが、端からそうなる事をわかっている場合は大変とも苦戦とも特に思う様な事は無い。これで予定外の用事が入って計画が圧迫されればまさしく苦戦であるが、最初から寝ないと決めておけば寝ない事が予定通りなのである。
然し矢ッ張りそうやって活動時間が長いとその分出会う景色も知り得る情報も自然増える。これでもし私が睡眠時間欲しさにカフェかイベントのどちらか一方を取り止めていたら、出逢えなかった人もいたし聞けなかった言葉もあった筈である。然しそれらが過ぎた今、それをこうして書けたという事は、即ちこの週末で出逢えて良かった人も聞けて良かった言葉もあったという事である。
掻き回した爪に引っ掛かるは何も餌ばかりではない。時に綺麗な石、時に蚯蚓、時に花という場合もあろう。養分にならない物は不要だと考えるは蝉である。人間である私はたとえ養分にならなかろうと、屹度花を美しがり、石を端へ除ける。人間の寿命が決して一週間と短く無いのは、命を繋ぐ役割に加え娯楽と労働を知るからこそ、であるかも知れない。
※この作品では一部実在しない表現/漢字を使用しています。
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