*2 手本
アルゴナウタイの遠征では金羊毛を求めて海の向こうにあるコルキスという場所へ向かったと言うが、それが実は穀物を求めて黒海を渡った古代ギリシア人をモデルにしているのではないかという話をある本で読んだ。穀物を輸入する工程をただ書き残すだけでは芸がないから、空想をふんだんに盛り込んだのだろう。昔の人が想像力に長けているのは、僅かな星を繋いで蠍や水瓶を想起しているのでも分かる。その本には続けて「この金羊毛は即ち黄金に輝く麦畑、優雅に棚引く穂を表しているのではないだろうか」とドイツ語で考察されていた。事の真偽に首を突っ込む積はない。そもそもアルゴナウタイという語もこの本でもって知ったくらいの知識であるから細かい事は知らぬ。然し黄金の麦穂を金の羊毛と見立てた表現は頗る美しい。この本の著者かホメーロスか、何方の偉人に著作権のある表現かは推測しかねるが、何れにしても立派な手柄には違いない。
私の身の周りでもすっかり、彼方此方で金羊毛が田靡いている。日本人に生まれた私の目には全くもって羊毛に見えないところがこの表現の見事たる点である。西洋人に羊が身近であるはキリスト教で羊が重宝されているところへも脈々受け継がれている。日本人の口からは黄金の稲穂を波に見立てた表現を聞いた事があるが、これは島国であるというところに因果があるのかもしれない。玄関を出た先、目の前に広がる他人の田圃を季節と共に観察して来た。これまで着目した試しの無かった季節と稲穂の色の移り変わりも、いざ知ってみるとなかなか味わい深い。この知識がどういった作用を己の人生の上に齎すかは分からぬが、分からぬくせに何か重要な鍵を握った気になっている。
そんな金羊毛の間をずんずん車で走って行く。走って行って金羊毛が無くなると今度は木々が立ち並ぶ。道も上り坂になっていく。そうして登った先にスキー場とペンション街があって、その内の一つを訪れた。今年の二月に知り合って以来、気になって仕方のなかった老夫婦のパン屋である。
今はもう宿泊施設としてはやっていないという建物は造りこそ立派であるが自然の一部と化した様に鬱々葱々としていた。古めかしい木の扉に手を掛けると、左側に呼び鈴があったから最初に呼び鈴を押した。音の鳴っている気配はない。もう一度押す。鳴らしている感覚すら手に無い。あんまり執拗く押してその実中でピンポンピンポンと鳴り続けになっていても悪い気がしたから、恐る恐る扉を手前に引いて開けてみた。一旦人の気配もなかった。こんにちは、と奥迄声を飛ばす。返事は無い。もう一度、もう二度、呼ぶ。声、なお無い。改めて呼び鈴を押してみると矢ッ張り鳴らない。さて困ったどうしたもんかと考えているところへ、奥で婆さんが顔を出した。
二月に知り合った時、石窯でパンを焼いていると聞いて是非見に行っても良いですかと聞いたのが始まりで、それから七カ月と経って漸くかの石窯を見られた。成程、立派である。この石窯も手造りで、造る上で大事にした点についても話に聞いていたから、そういった過去の話を頭の内で引っ張り出したうえで窯を眺めてみるとまた立派である。
パンを焼いている小屋は此方で勝手に想像していたよりも小さかった。この工房の一部も、基礎のコンクリートから手造りだと言うから感心した。内装をどうだこうだと評する権利も持ち合わせていないから特別書きもしないが、矢張り余所の工房へ入って見ると面白い。ここであのパンが焼かれるのかと想像を巡らせる。私はこの老夫婦が作るパンが大好きであった。
それから庭先に腰掛けを出して三人で珈琲を飲みながら会談に勤しんだ。ペンションを主にやっていた頃、パンを作り始めた頃、二人がまだ学生だった頃、昔話はどれも興味深いものばかりで甚だ感服した。格好良い大人、という語がこれほど似合う人も今や稀少である。出店するイベントの話や材料の話もした。顔の広いのは年の功というばかりでなく、二人の精力的な性分が大いに影響しているのだろうと思う。結局三時間と滞在し、大変な刺戟を受けた私が帰ろうとする際に、手土産に新作のパンをくれた。私の方からはライ麦のパンを渡した。「これ全部猪が土を穿り返した跡なんですよ。あらここもこんなに、これは知らなかった」と婆さん、無邪気であった。
九月に入り、何か目に見えぬ枷が外れた様に感ぜられてから背中を押される事が続く。そうすると物理の法則で自然、動きが軽くなる。あっと思い付いたらすっと足が動く。すっと単簡に動いた時ほど受け取る結果も明るい。一つ例を挙げれば、今週ETCを新規に買おうと思案していた私は、まあ大体取り付け公費込みで二万円弱はするだろうというところ、或るキャンペーンを見付けて結局五千円も掛からずにETCを手に入れた。その時も、キャンペーンの情報を見付けて直ぐに取扱店へ出向き、彼是と考える間もない内に取付工事まで終わっていたのであるが、徒に思考を巡らせて動きが鈍る癖を持つのが元来の私であったから、こうしてあっ、すっと軽やかに動くのは経験として新鮮で、そうした新鮮な経験に良質な結果が伴えば、この成功体験が癖付いていくかもしれないと、希望的思考を巡らせた。オンラインショップでも同様で、商品を選んでから購入に至る迄態々不必要な間を空けるのが元来の私であったが、今週は目当ての物を見付け次第すかさず購入に至った。取り分け粒立てて書く様な話ではないが、これは私の体感において大変重要な要素なのである。
まあ兎に角、体の軽さを感じていた今週、シャインマスカットを使ったパンの試作にも掛かった。十月に控える、地元産食材を使った商品の販売が義務付けられたイベントへの出店に向けてであったが、この出来映えが大変良かったから土曜日のカフェでも並べる事が直ぐに決定した。クロワッサン生地は手間が掛かるから容易に増量して作るは難しく、特に今週はまた暑さがぶり返して工房の中の蒸暑ぶりは熱中症必至の猛烈具合であったからクロワッサン生地を折り込むのも気が進まない環境であったが、こればかりは美味しさが遥かに上回った。何よりシャインマスカットが頗る美味い。生の果実が苦手な私も、思わず一粒千切っては口に放り込みたくなる美味さで、高価であるも大いに頷けるものと思った。
満を持してカフェに並べると、これは然し見栄えが良い。これまでどうしてここに手を出していなかったのかと自分で自分の過去を不思議がる。来店していただいた御客の中に、シャインマスカットのデニッシュを持ち帰る者もいたがその場で食べる者もあって、感想を聞けば大いに好評であった。私も高評価を下したうちの一人で、是非御勧めですと言って街中で配って歩きたいほどである。無論これは私の腕前自慢に非ず、パン職人はあくまで裏方なんだから、主役のシャインマスカットのデニッシュの魅力を一人でも多くの人に知って頂きたいという心理である。
その日の晩、地元の祭があった。これで帰国して一年が経ったという一つの目印である。祭囃子や山車が控える公会堂へ出向くと、昔懐かしい地元の同級生が皆帰郷してきていて数年ぶりに顔を合わせた。久しぶりに夜の深い時間まで酒を飲んだ。
※この作品では一部実在しない表現/漢字を使用しています。