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ヨン・フォッセ『朝と夕』

2023年にノーベル文学賞を受賞したノルウェーの作家で、主に戯曲の分野で有名な方ですが、『朝と夕』は小説の形式です。昨年の受賞で一気に翻訳紹介が進み、2024年に本作含む4作品ほど出たと思います。

書影

作者は1959年生まれ。その功績から同国の文豪イプセンの再来と呼ばれているそうです。「言葉で表せないものに声を与えた」という言葉をノーベル賞委員会が出しています。

ヨン・フォッセ Wikipediaより

ストーリー

二部構成。共にフィヨルドの街 141ページ

一部は息子の誕生を待つオーライという男の随想のようなもの。生まれて、その子にヨハネスと名前を付けるまで。二部は時間が流れ、そのヨハネスが老いて街をふらつき、死に至るまでの断片的な回想といったもの。

ストーリーはあってないようなものです。芝居のト書きくらいの筋で、あとはオーライとヨハネスとそれぞれの会話と思念のみですから、非常にミニマルと言っていいと思います。面白い小説が読みたいという方には向いてないでしょう。生と死を扱ったものとして、身内に不幸があった時に読むと骨の髄まで沁みるといった類の小説です。

イプセンの再来と言っても『人形の家』『民衆の敵』のような社会批評性のあるものではなく、最後の作品『私たち死んだ者が目覚めたら』の観念的で象徴主義のテイストがするものに連なっています。
ノルウェーの外交官ダグ・ハマーショルドの随筆、スウェーデンの映画監督イングマール・ベルイマンの映画やノーベル賞作家ラーゲルクヴィストの『バラバ』『巫女』など、信仰を主題にした北欧映画や文学に親しんでいる方なら、抵抗なくすっとフォッセの世界に入れると思います。

感想

①無から無へ

通読して第一に人生は無であると思いました。それは悲愴でもネガティブでも虚無でも禅的なものでもなく、味付けされていない「無」ただそれだけです。太陽が昇って沈む平凡な一日の現象と命は同じで、特に何でもありません。子供がいようがあくまで他人であり、人生は無から無へ移行するだけです。

「人生とは何か」「君たちはどう生きるか」といったものとはまるで遠く、生誕と死、つまり人生は無から無への移行でしかない、という淡々とした態度がとても心地よく響きました。それは、何もかもに意味や意義を持たせ、情熱と充実した生を追い求める現代人の、ねっちょりとした認識の対極にあることもあってか、突き抜けた清々しさを感じます。

②戯曲へと融解寸前の小説

登場人物の発話時に「」はなく、文末の「。」もありません。全てが等しく並んでいます。また文章も繰り返しが出てきたり、極端なオノマトペが使用されたりと、パラっとめくっただけでも視覚的に普通の小説でないことがすぐわかります。詩的な自然描写も内面の吐露も同じ地平で展開されることもあってか、自ずと映像が思い浮かびます。劇作家としての表現法が散文で存分に発揮されている例です。

二部のヨハネスが友人のペーテルと船釣りをしたときに、ヨハネスのルアーが沈まないこと(これは象徴として読める)を認めた場面、

可哀想に
海にとってお前はもう用済みなんだ、とペーテルは言った
ペーテルは涙を拭った
残るはもう陸だけだ、とペーテルが言った

p80

このように心理描写という名の「説明」はありません。芝居のト書きがセリフと融合した散文といった雰囲気をまとっています。

第一部は詩と小説が、第二部は戯曲と小説が融合した文体になっており、特に二部は、風景も人も観念も同じ次元に並んでいるように見せるべく戯曲の形式に接近し、小説が融解寸前になっていると思います。そのため読者は普通の小説のような感情移入はできず、作品と距離があるように感じざるを得ないのですが、それが生と死という括りの中で行われるので「神秘的」「幽寂」といった感想になるのだと思います。

内容だけでなく表現様式も興味深く独創的です。

③「言葉で表せないものに声を与えた」とは何か

率直に言えば「神」など宗教的次元のものを思い浮かべるでしょう。実際に聖書由来の名前や句が散見されるので素朴に誘導されます。

こんなことを言うと異教徒と見做されそうだが、ただ闇雲に使徒信条を唱えるのだけは御免だ、それはできない、仕方のないことだ、知っていることを知らないことにはできないし、見たものを見なかったことにはできない、理解したことを理解しなかったことにはできない、そう俺が知っているのは言葉で言えるようなことではないから、それは言葉より哀しみに近いものだから、

p12

一部オーライの独白で、彼にとっての神はキリスト教の神とは別のものであるというニュアンスの言葉がその後も続きます。とはいえ自然崇拝や汎神論といった何らかの対象としての、私たちがイメージする神ではありません。唯物論的世界からはみ出した何かというものでしょう。それはまさしく「無」とかなり接近しているように私は思います。

無神論という意味ではなくて「神」の代替としての「無」。19世紀後半の作家が宗教上の神ではなく芸術を神格化していたように、神の代替物は様々なものがありますが、ここでは「無」ではないかと。
先輩格に映る巨匠ベルイマンの映画では執拗に「神の不在」という「無」のヴァリエーションが描かれていますが、そこには感情に訴えるための不安や恐れの演出が多くなされています。しかしフォッセは文体と内容からしてその演出はなく、読者に手がかりを与えることもなく淡々と「無」を提示しています。ヴァリエーションも無く、虚無から「虚」のニュアンスを抜き取っているというくらい、生まれて死ぬ、以上。一切は無。という透徹した寂寞がここにあります。

ヨハネスが生まれる一部と死ぬ二部の間に、膨大な記憶や人生があったはずです。子育てしていたことも紹介はされています。しかしこの小説では全て端折られており、産声と死の間際だけが提示されていることもあえてしているのなら、より一層無から無への移行という人生の真実を印象付けることになります。

「無」なので言葉で示すこともできません。演出で周辺を感じ取らせることはできますが「無をそのまま感じ取らせるには」という途轍もない課題に、上述したように作家としての工夫を凝らして向き合い、それに成功している稀な小説だと思いました。

無音に、静寂に、耳を傾けて。

まとめ

思想や芸術というよりは印象をそのまま言語に留めたという体なので、普通の小説ではありません。おそらく読書で使う脳みそも違うと思います。

面白い小説を欲していたり、時間の合間に読もうかなという用途には全く向いていませんし、日頃から超越的な対象について考えている/考えたことがある人にしかあまり分からない、読む人を選ぶ作品です。ノーベル賞なのにあれ?と低評価や批判も多いのはなんとなく分かります。本作もあと少し長かったら退屈が勝り、バランスが崩れ駄作になっていたかもしれません。

本作をまず最初に読んで、相性が良ければ他のフォッセ作品も読んでみてください。逆に最も早く訳された『誰か、来る』から読んでも何も掴めないのではないでしょうか。

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