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思い出のスイミングスクール(アルバイトのきっかけ)

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私がこのスイミングスクールに、指導者として新たな学びを得る事となったのは大学1年生の時だった。久しぶりにこのスイミングスクールを訪問した折にHコーチから声をかけてもらったことがキッカケだ。

ちなみに生徒として通ったスイミングスクールは、私が小学6年生を終えると同時に幕を閉じた。最終取得級は1級だった。このスイミングスクールには、級制度の他に選手コースなる大会出場選手育成制度が存在する。これは各コーチからスカウトを受けるか、立候補して参加するもので、私の通う小学校の同級生にも選手コースに通う生徒はそれなりにいた。

私は選手コースにはいかなかった。コーチから誘われなかったのもあったが、母が選手コースに通わせるほど競泳に対して熱心というわけではなかったのが大きいと思う。母が熱心だったのは水泳であって、いざという時に水の中で対応できる力を身に着けてほしいという願いが前提だったから、私を無理に選手コースに押し上げようというつもりはなかったのだろう。

この選手コースには私自身も興味を示さなかった。今だからこそ言える事かもしれないが、興味を示さなかった当時の私の事を今の私は褒めてやりたいと思っている。なぜなら、その後の私の人生を大きく分ける分岐点がここだったと思うからだ。私は運動音痴だ。その事実に気づかずに選手コースに参加したいと言っていたら、間違いなく中学に入ってもスイミングスクールに通っていただろう。そうなれば、中学から大学卒業までずっと熱中することになり、それなりの結果と自信を手に入れることが出来た音楽という活動とは出会えていなかったかもしれない。もしかしたら、箸にも棒にも掛からぬ中途半端な競泳ライフを送り、何者にもなれぬままの人生を歩んでいた可能性もあるだろう。

もちろん、実際その場所にいたわけではないので、この話はどこまでいっても想像でしかない。選手コースに行った生徒の多くはこのスイミングスクールのかつての指導者と深い関りを持っている者が多い。そこから次の指導者が沢山生まれていたのも事実だ。もしかしたら私も、そういうパターンでこのスイミングスクールの指導者になっていたら、実際にこの現実世界で体験した指導者ライフとは違う、また別の濃い指導者ライフを送っていたのかもしれなくて、それはそれでとても興味深い世界であるようにも思う。

でも今となっては、私は私の短い指導者ライフに誇りを持っているし、それで良かったとも思うから、やっぱりこれで良かったのだろう。

喘息発作に苦しめられて部活を退部しなければならないなど、水泳を辞めたことによる少々のアクシデントや障害があったのも事実だが、あそこでスイミングを切り上げたのは、その後の私の人生の中でも大きなポイントの1つだったと思う。

私は中学生でバンド活動を始めて、大学生2年生の時にはプロとして人前で歌を披露し、CDを発売するまでに至った。それは、このスイミングで鍛えられた精神力と近くで見た指導者の姿勢が作用したからに他ならない。素敵なタイミングで明るい潮時を迎えることができ、生徒としてのスイミングライフには何の不満もないというのが本音だ。

では、そんな大学生の私がなぜそもそもスイミングスクールを訪れていたのか?かつての私の指導者であるHコーチが声をかけてくれる環境に身を置けたのか?

選手コースに行っていればこの流れに整合性を感じることは出来ると思う。そこは選手コースに通った人たちにとって、ある種の学校と同じくらいに青春を謳歌した場所だからだ。しかし、たかだか一般の級制度を終えただけのどこにでもいる生徒の1人だった人間が、7~8年の時間を経て、わざわざ過去に通っていたスイミングスクールを訪問する理由なんて、よほどの事がなければ無いというのが一般的なものだと思う。

私からするとこの出来事は、偶然に偶然が重なった運命のようなものでしかない。この先に待ち受けている大切な仲間との出会いや非日常的でドラマティックな時間を思い返すと、あの時あの場所にいたことがその後の私の人生において必要な出来事だった言わざるを得ないのだ。それはまるで因果関係という舞台の真ん中に立たされてマリオネットのように操られたようなもので、奇跡的に奇跡的な確率を射抜いてしまったとしか言いようがないと今は思うのである。

私がHコーチにスカウトされる場面が生み出された要因は弟だった。4人兄弟の長男である私には年の離れた弟と妹が1人ずついる。そんな弟は私が大学1年生の頃、かつての私のようにこのスイミングスクールで水泳を習っていた。小学校高学年だったと思う。その時に担当していたコーチが弟からすると異様に怖い存在だったそうな。気弱な弟はその恐怖の現象を母に伝え、スイミングスクールに行きたくないと主張したらしい。困った母はその事を私に相談してきた。その時母から聞いたコーチの名前に私はピンときたのだ。

弟のコースを担当していたコーチは、私が高校時代に通っていた空手の先輩にあたる人だった。母から話を聞いた私は、恐らく私が弟の水泳を見に行けば万事解決するだろうと踏んだ。後輩である私が弟の前で私がお世話になっている先輩として挨拶をすればいい。コーチの対応も後輩の弟に変わるだろうし、何より弟がコーチを怖がる必要がなくなるだろう。

別に人肌脱ぐ必要もなかったのかもしれないが、父のいない我が家では長男の私はいわば家長にあたる。そんな妙な責任感を言葉では説明出来ずとも、胸の内に抱いていたのかもしれない。私は一度スクールに行き、コーチに挨拶をして、弟の水泳ライフが明るいものになる手伝いをしてもいいと思ったのだ。

久しぶりに入った施設は、おおよそ私が通っていた頃と変わっていなかったように思う。青を基調とした壁、昭和のマンガに出てきそうな質素な更衣室、丈夫なプラスチック製のテーブルセット、公園に置いてありそうな2~3人掛けの椅子で構成された全体的に和やかな雰囲気が漂う室内だ。何人もの子供が、この場所で親との疑似的再会を果たした事だろう。水泳を終え、達成感に満ちた子供が親の元へ走っていく姿を沢山見たものだ。そんな素直に子供を褒めることが出来るこの待合室には妙に温かい空気が流れているように感じた。変わったなと思った点は、体操室と待合室を隔てる内壁に飾られたコーチの写真とプールだ。私が通っていた頃よりも明らかにコーチの人数は減っていたし、プール内にいる子供の人数も明らかに少なくなっていた。プールに関してはコース形成すら変化していたように思う。私が通っていた時は25メートルプールを横向きに使っていたが、大学生になった私が見たプールは縦に使っても十分におさまりが利いていた。

時代の流れによる変化だろう。その時私の胸の内を感慨と寂しさが一瞬埋め尽くした。急に床が抜けて落下したような感覚が凄いスピードで胸の中を横切ったような気がした。

待合室とプールはもちろん仕切られている。しかしこの施設は、見学者が実際に臨場感味わえるよう、プール部屋を上から眺められるように通路が設置されていて、扉一枚で出入りが可能になっていた。そこに出ればコーチの声はもちろん、泳いでいる生徒を生で確認することが出来る。ただ、プールの部屋は温度も湿度も高いため、実際に見学する親御さんは少なかった。

私はそんなプール部屋の通路に出て、弟が泳いでいるコース付近まで歩いた。弟を発見した私が真上からコースを覗いていると、コーチが真っ先に私に気づいてくれた。私はコーチに直接挨拶をし、泳いでいる彼が弟であることを簡単に告げた。コーチは今教えている生徒が私の弟であると気づいていなかったようで、私の簡単な説明を聞いた後、少しびっくりしていた。

私は伝えるべき事を伝えることが出来たので、待合室に戻った。あとは、レッスンが終わった時点で改めてコーチに挨拶をすればいい。待合室には、子どものレッスンを片目で見ながらダラダラとおしゃべりを展開している保護者たちが作りだす、落ち着いた夕方のひとときが流れていた。私も、ここからはぼんやりと他のコースのレッスン風景を眺めていれば問題ないだろうと思い、他の保護者同様リラックスモードで2~3人掛けの椅子に腰かけた。座った瞬間、急に肩の荷が下りた事を実感した。良い働きをしたという自己満足の他に、久しぶりにスイミングスクールを見れたことや先輩コーチと話せたことなどが急に実感として湧いてきたのだと思う。脱力したことを証明するために身体を大きく伸ばした。その時突然、右の肩を誰かが叩かれたのだ。

慌てて振り返ってみると、そこに立っていたのがHコーチだった。

久しぶりに見たHコーチは、生徒として通っていた頃と比べて非常に角が取れている印象を受けた。顔の輪郭も少し丸くなっていたし、肌も白くなっていた。体格も肩幅が少しだけ狭くなった印象だ。それでいて変わらない部分もある。大きな瞳に以前と変わらない力強さがあるような気がした。大学生だった私には分からなかったが、それは社会に出たことで伴った責任が物語る奥深さを伴った力強さだったと思う。当時の私が宿していた無鉄砲な力強さとは明らかに違うものだったろう。それを見抜けなかった私は、今後Hコーチの方針に素直にうなずけなくなっていく。そのどうしようもないものまで含めて運命だったのだと今は思う。

Hコーチから久しぶりと声を掛けられた私は、とうとう私自身もあの時のHコーチと同じくらいの年齢になったのかと感じ、妙な焦りを覚えた。それは、果たして私はあの時のコーチと同じような立派な大人子どもを演じることができているのだろうか?という焦りだった。

今は何をしているのか?アルバイトはしているのか?など、Hコーチは他愛ない質問を私に投げかけてくれた。私はバイトはしておらず、母からは時間があるならバイトでもしなさいというお小言を頂戴している旨を冗談っぽく話した。

今思えばHコーチはその言葉を待っていたのだろう。先ほどまで再会を懐かしむような緩い会話を繰り広げていたのにも関わらず、急に少しだけ間を置いてから「それならここでコーチをやってみない?」と言った。

Hコーチからすれば当時沢山いた生徒の1人だろう。この時点で(というより、実際にコーチを始めてからずっとだと思うが)、私にコーチとしての特別な才能があると見込んで頼んだわけではないはずだ。声をかけた要因は、慢性的な人不足が要因だと思う。学生アルバイトがメインだったからこそ、もうすぐ卒業するという問題は常に付きまとっていたはずだ。私が弟の練習を見に行ったのが大学1年の5月くらいだったから、おそらくこの時の3年生は就活などで今後シフトに穴をあけることが増える。そうなれば、人はいくらいても良いというそんな判断だったのだと思っている。もう少し言えば、Hコーチは人事と採用を担当していた。そこにはノルマのようなものも発生していたのだろう。私は、飛んで火にいる夏の虫だったわけだ。

そんな裏腹な思いがあることを当時の私が理解しているわけもない。私の中に去来する思いは「認められた」という実感だった。当時の私は音楽を学び、音楽の活動に明け暮れていた。高校生の時からそんなニッチな世界にいたものだから、その反動で普遍的な世界を見たいという欲求と人があまり見ることが出来ない変わった活動をしたいという思いが混在していた。要するに中途半端な思いを抱いていたのだ。だからこそ、この提案は単純に魅力的だった。ライブハウスの世界と比較した際の普遍性とスイミングコーチという絶妙なブラックボックス感が、当時の私が抱いていた欲求にドンピシャとハマった。加えて、バイトを探す手間も省けるのだ。

私は「ぜひやらせてください」と言った。

そこに深い考えはなかった。

今でこそこの判断は後悔していない。一時期は本当に後悔したものだが、色々なバイトを経験した私が、ここで過ごした時間を一番鮮明で一番濃いものだったと思っているのだから、選んだ道は間違っていないのだと思える。ただ、もう少し先の展開について予想や予測を立てておけば、私がしでかした過ちや狭すぎる視野から生まれた恥ずかしい失敗を華麗にやり過ごすことが出来たのではないかと今は思う。結局私は、一辺倒かつアルバイトというものをどこか軽いものだと思っていたのだろう。バンド活動や大学生活と比較して、明らかに思慮の浅い、無鉄砲な飛び込み方をしてしまった。妙な自信と自分は器用な人間であるという妄信が、防げる問題を野放しにしてしまい、それが後悔となってのちの自分に降りかかってきてしまうことになるのだから。

翌日私は履歴書を持参し、軽い面接を受けた。

面接の内容についてはほとんど覚えていない。というのも、履歴書を出した時点で合格は決まっているから、いくつかの質問に答えてほしいとHコーチに言われたのだ。

この時点で私は認められたという感覚に酔っていた。恥ずかしい話だが、自分が見習いからスタートするなんて思っていなかったのだ。

ほとんど覚えていない面接だが、1つだけぼんやりと覚えている会話がある。

「いつから出勤できる?」

「明日からでも働けます」

「そっか。じゃあ明日からNコーチのサブで入ってもらおうかな」

「え?自分サブからですか?!」

「そうだよ(笑)まずはメニューを覚えてもらわないと(笑)」

「そうか、そうですよね!分かりました!」

確かこんなやり取りだったと思う。私はいきなり1人でコースを任される事を全く疑っていなかった。よく考えればそんなことはありえない。水泳は一歩間違えれば命に関わるのだ。まずは経験者に付き、身の振り方を体験して、様々な方法・リスクに対応できるようにならなければいけない。いかに自分が驕りたかぶっていたかが分かる会話である。今振り返ると、とても恥ずかしい。それにしても当時の私は、本当に根拠のない自信を持っていたのだと思う。それは私のような根が陰キャな人間が見せた貴重な若さゆえの過ちのようにも思うのだが。

そんな危うい場面がありながらも、私はその場で面接の合格を頂いた。明日から、かつて自分がお世話になったスクールに指導者として再び立つという実感は、この時点では持っていなかったように思う。それこそシンプルに、すぐに1人でコースを持って淡々とレッスンをこなしていけば、適度にお金がもらえるくらいに考えていた。当時のほとんどの大学生なんてそんなものだと思うが、私ももれなくその1人だった。しかし、このアルバイトが私の仕事観を決定的に変えることになる。良くも悪くも、私はこの場所で社会という大きな波の一部に触れることになるのだ。それは、音楽の世界とは全く違う当たり前がはびこる大きな世界の秩序だった。私は今後の人生を、そんな大きな世界の秩序の中で過ごすことになるのだが、そこが魅力的な場所であるとこのアルバイトが気づかせてくれるなんて、この時は全く思っていなかった。


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