【しらなみのかげ】「自然化」と「歴史化」の中で「人間」から/を問うこと―19世紀ドイツ思想哲学史概観 #36
18世紀後半のアメリカ独立革命、そしてイギリスの産業革命とフランス大革命に端を発した「近代」という時代は、一言で言えば、常に「人間」が問題となる時代であった。この時代においては、あらゆる問いが「人間とは何か」という問いと共に問われていた。「「人間」は波打ち際の砂の表情のように消滅するだろう」と『言葉と物』(1966)の末尾にミシェル・フーコー(1926-1984)は書いたが、絶えずその内容を問い続けなければならなかった、抽象的で一般的な概念としての「人間」こそ、この「近代」という時代を根本的に規定するものであったことは疑いようがない。
近代の曙を生きたケーニヒスベルクの哲学者イマヌエル・カント(1724-1804)は、よく知られるように、哲学の課題を三つの問いで表している。曰く、「私は何を知りうるか」「私は何を為すべきか」「私は何を望んでよいか」。そして、この三つの問いは次の一つの問いへと集約される−「人間とは何か」。カントは、その晩年の著作『実用的見地における人間学』(1798)の書名の通り、キリスト教における形而上学的な問題であった神・自由・魂の不死、そして存在という伝統的な形而上学の問いを「人間学」へと収斂させたのである。そしてカント以後は、この「人間学」という問題圏の上において、改めて形而上学が問われるようになる。
本稿では、主に18世紀末から19世紀のドイツにおいて、この「人間とは何か」という問いがどのように変質したのかを簡単に整理してみることによって、「近代」の問題を整理してみたい。
1.カントの超越論哲学における「人間」の二重化
カント自身はこの問いに対し、「現象界」と「叡智界」を吟味して分けて考えることにより、言わば二階建ての答えを出した。
彼の超越論哲学とは、認識される当のものが与えられる知覚経験を超越していると考えるのではなく、我々人間の認識の可能性の条件の方が与えられる知覚経験に対して論理的根拠において先立つ、と考えるものであった。
その見地から彼は、多様な表象を受け取る感性的な直観と、それを概念によって判断する悟性的な思惟が、多様なものを綜合して一つの形象にする構想力に媒介されることによって認識が成立すると考える。それ故、形而上学的な意味における「実在そのもの」である物自体は認識され得ず、その現象のみが認識の対象であると言う。そして、神ないし絶対者(超越的で非依存的な無制約者)についての形而上学的な「理念」は、それ自体が世界を構成するために使用されるべき概念ではなく、あくまでも先に述べた認識を統制するために使用されるべき概念であると唱えるのである。これらの「理念」、すなわち物自体は、自由意志の自律によって実践される道徳を司る実践理性によって「要請」されることになる。
ここで人間は、自然の因果性の法則の世界(認識が成立する経験科学的な現象界であり理論理性の範囲)のみならず、物自体の秩序の法則の世界(道徳として実践される形而上学的な叡智界であり実践理性の範囲)にも属する「人格」として考えられることになる。この人格が、自らの傾向性や欲求を克服し、言い換えれば、神の民として徳の法則に従うことにより道徳的人類による「道徳共同体」を建設しようとすることこそ、カントの言う「理性信仰」である。この理性信仰においては、道徳性と幸福の一致する最高善は人間にとって命令である。そして、その命令者として要請されるものこそ、神聖な立法者であり慈悲深い統治者であり公正な審判者である神に他ならない。
そしてこの要請が翻って、先に述べた経験的な世界認識を統制することになるのである。
2.ドイツ観念論による形而上学=哲学的神学
このように二重化された「人間」という問題圏の上から真正面に「絶対者」=「神」という形而上学の問いへと向かったのが、ヨハン・ゴットリープ・フィヒテ(1762-1814)、フリードリヒ・シェリング(1775-1854)、ゲオルク・ヴィルヘルム・フリードリヒ・ヘーゲル(1770-1831)といったドイツ観念論の哲学者達であった。彼等にとって「人間」への問いの出発点となったのは、カントの「超越論的自我」(一切の経験の可能性であり根拠となる自我、即ち「認識する主体」)の概念と、その働きによる世界の把握であった。
そのきっかけを作ったのは、1786年に『カント哲学についての書簡』を書いたカール・レオンハルト・ラインホルト(1757-1823)にある。彼は、カントの構想を「意識の命題」(「意識そのものには,対象との区別の側面と,対象との関係の契機が含まれる」という第一原理「意識律」である)すなわち「表象能力」において一元化しようと試みた。問題は、人間の「意識」へと焦点化する。
そしてドイツ観念論の哲学者達は、カントが経験の構成から切り離して道徳の要請として語った「理念」を、カント自身は深く突き詰めることのなかった、そもそも自己を自己として同定する自我の反省的な「私」の「自己意識」の能動的な働きの問題として扱うのである。超越論的自我のこの能動的な働きを「事行」(自我の自己措定の働き)として考案したのが「知識学」を謳ったフィヒテであった。フィヒテにおいて、やがて理念は神的な「精神」として、こうした「自己意識」の構成そのものを導くものとして絶対化されることとなる。このような理念の絶対化の動向を、フィヒテに並走しつつも彼と異なる方向から発展させたのがシェリングとヘーゲルであった。
こうした方向に対しては、1785年に起こっていた「スピノザ論争」(汎神論論争)が、深甚な影響を及ぼしていた。劇作家ゴットホルト・エフライム・レッシング(1729-1781)が晩年に「自分はスピノザ主義者かも知れない」と述べたことに端を発し、哲学者フリードリヒ・ハインリヒ・ヤコービ(1743-1819)と哲学者モーゼス・メンデルスゾーン(1729-1786)の間に交わされたこの論争によって、スピノザの神即自然の思想が形而上学の最大の問題として浮上することになったのである。その影響を最初に濃厚に被ったのは、シェリングであった。彼は、当初はフィヒテの知識学を跡付けて自我の原理を追求していたが、主観と客観、精神と自然は絶対的同一者の下で一体であるというスピノザの思想を受け、主観的な自我を言わば反対側から見たものとして、1797年から有機体の観念を以て自然の形而上学的基礎付けを行い始めたのである。
折しも、道徳的世界秩序こそが神であり、信仰とは道徳的世界秩序に対するものであるとしていたフィヒテが、1799年に政府当局から告発を受け、イェーナ大学教授を辞してイェーナを去ることになった(「無神論論争」と呼ばれる)。こうした政治的事情もあり、ドイツ観念論の哲学者達はフィヒテに限らず、スピノザの汎神論哲学とキリスト教的な神の思想とを互いに矛盾しないものとして、超越論的自我への問いから考えることを強いられることになる。
そして1801年、フィヒテ、シェリング、ヘーゲルの三人は一斉に「絶対者」という概念を用いることになる。この時彼等は、超越論的な「私」の経験についての自己知と、それを構成する絶対的な理念の知の結びつきにおいて、「絶対者」=「精神」=「神」の現れを見ようとしたのである。
その複雑な探究と論争の道行の中で「絶対者」=「精神」=「神」の現れはこの「認識する主体」の元で、或いは「理念の実現へと歴史を動かすもの」(ヘーゲル)として、或いは「全体としての生ける自然」(シェリング)として、或いは、「天才の創造する新しい神話としての藝術」(シェリング)として、或いは、「人間の道徳的自由の完成態である人倫」(フィヒテとヘーゲル)として、そして「神の顕現そのものとしての宗教」(フィヒテ、シェリング、ヘーゲル)として把握されることになる。そして彼等においては、これらの神的な実在の領野が、人間による自己自身への問いにおいて見出される人間の自由の根拠として、そして、その実現として考えられていた。
理念と司る道徳と宗教をあくまで人間の道徳的要請であるとしたカントと対比するならば、彼等ドイツ観念論の哲学者達は、超越論的自我の自己意識を構成する絶対的理念として、絶対者の働きを言わば直に感じ、直に見たのである。
ドイツ観念論とは、この意味において「認識する主体」としての人間の自我に立脚した形而上学に、もっと言えば哲学的神学に他ならなかった。
3. 藝術、自然、宗教、そして歴史へ−ドイツ観念論の続き
かくしてカントが提起した「人間とは何か」という問いは、ドイツ観念論において、彼の言う超越論的自我の能動的な働きを導く絶対的理念の哲学的神学として問い直されることになったのである。
しかし、カントが極めて重んじた道徳や宗教は良いにしても、何故ドイツ観念論は藝術や自然を極めて重視したのか。その萌芽は、カントの第三批判書『判断力批判』(1790)にある。
この書においてカントは、構想力と悟性を繋ぐものとしての判断力(特殊的なものを普遍的なものに含まれたものとして思考する能力)に関して、普遍的なものの方から特殊的なものを従属させて包摂する規定的判断力とは別に、特殊的なものの方から自ら法則を生み出すことによって普遍的なものを導く反省的判断力というものを提唱していた。後者は、美的なものや崇高なものを判断する主観的な美的判断力と、全体としての自然の目的を有機体の存在において判断する客観的な目的論的判断力によって成る。そして、美的判断力は目的論的なものでありながら概念を持たず、完全に主観的な快不快を原理とするものだが、特定の目的には服していないので構想力と悟性の間に「自由な戯れ」を産み出す(そうであるが故に、美は「目的なき合目的性」と呼ばれる)。しかも、主観的であるにもかかわらず、普遍的に同意を求めることが可能であるという点で普遍性を持つとされる。
カントは、「目的なき合目的性」という表現において人間の意志的な目的概念を排除していることからも分かるように、こうした美的判断の基礎として自然美を考えていた。しかし彼は、自然の模倣であるような技術による藝術美、詳しく言えば、一切の概念から全く自由であるのにその後の模範となるような「美的理念」(これは「想像力の表象」である)についても考えており、それを表現する藝術的天才のことを「精神」と呼んだ。
このような議論を行った上で、カントは「美は道徳性の象徴である」と言い、「自然の最終目的は人間の道徳性である」と言い、この反省的判断力を道徳へと接続する。要するに、理論理性と実践理性を媒介するものは、この反省的判断力であり、つまりは美であり、崇高であり、全体としての自然だというのである。
ここには、ドイツ観念論のその後の展開を開く素地があったと言える。
実際シェリングは、フィヒテの自己定立的な超越論的自我論の影響を被りつつも、カントの残した有機的自然と藝術を、自我の更に根源にあるものを知的直観によって示すことによって哲学全体を導く絶対的な理念として考えたのである。自然哲学と超越論哲学を並列した上で「自然はまだ無意識な精神の詩であり、全哲学のオルガノンにして要石であるのは藝術である」と宣言した『超越論的観念論の体系』(1800)はその極致であったと言えよう。
しかし彼はそれで満足出来なかった。このような自然と精神の永遠的な絶対的同一からどのように時間的で有限な差別が生じるのか、そして人間の自由と世界における悪はどのように説明出来るのか、先の議論だけでは理解出来なかったからである。彼は『人間的自由の本質について』(1809)において、神秘主義哲学者ヤーコプ・ベーメの影響を受けつつ、神の「存在」(精神)とその根底にある「存在の根拠」(神の内なる自然)とを分けて考え、その統一に「無」(無底)を見出すようになり、人間における自由と悪は、両者に根を持つ人間における後者の前者に対する相剋であると考えるようになった。彼はこの立場を更に発展させるために、神の生成と自己展開の歴史の解明を課題として、世界の「世代」を考え、神話、啓示の研究へと向かうことになる。ここに至ってシェリングにおいて、「歴史」が直に哲学の問題となると同時に、形而上学そのものが「歴史化」されたと言える。
他方でヘーゲルはと言えば、自然や藝術を、宗教と共に自らの絶対的な概念の哲学へと回収した。
彼の哲学においては、まずは神的なロゴスそれ自体の定義の展開として論理学があり、(シェリングの影響を受けて)有機的自然は絶対精神=神の外化の一契機として自然哲学の範疇として考えられる。カントがあくまで目指すべきものとした「道徳的共同体」は、ヘーゲルにおいては精神哲学の範疇である。これは、既に実現している人倫(家族、市民社会、国家)として、この精神の体系化の完全態をなすものとされる。超越論的自我の構成から、即ち「人間とは何か」という根源的な問いから絶対者を目指す形而上学的な試みは、ヘーゲルにおいては現実の「世界史」の中で実際に展開されたことになり、人間性と神性が一致する、すなわち「歴史」が完成する。この段に至って藝術は、宗教と共に歴史の中で絶対精神=神として表象として展開されてきたものと考えられ、最終的には共に絶対的な概念として哲学によって把握されるのである。
そしてヘーゲルにおいては、哲学史が絶対精神の自己顕示の最も端的な過程であると考えられるので、古代以来の哲学史の展開はそのまま哲学の展開の内容として意味付けられることになる。こうしてシェリングのみならずヘーゲルにおいても、哲学において直に「歴史」が問題となり、形而上学そのものが「歴史化」されたのである。
他方で、フィヒテやシェリング、ヘーゲルと並走しつつも彼等と異なる観点からカントに対して異議を突き付けたのが、近代的解釈学と自由主義神学の創始者であるロマン主義者フリードリヒ・シュライアマハー(1768-1834)である。
彼は、「宗教の本質は知識と行為ではなく宇宙の直観と感情である」とその著『宗教について』(1799)で喝破し、無限者との直接の合一として「宗教」を定義することによって、道徳や哲学から明確に切り離すのである。そして、宇宙へ向けられた人間の絶対依存の感情として信仰を研究した。この絶対依存の感情こそがキリスト教における罪意識であり、そこからキリストによる贖罪へと向き合わされるというのである。後の自由主義神学の基礎となる彼の仕事は、宗教を道徳の延長線上に位置付けたカントへの明確な異議申し立てであった。
このようにして人間の主観的な体験の内に「宗教」を位置付けることにより、「宗教」に固有の領域を認めた彼は、そうした個人的体験は常に共同体の中で歴史的に把握されるとした(それ故にキリスト教の枠内から彼は逸れることがなかったのである)。しかし、ヘーゲルのような論者とは異なり、「精神」ではなく言語による対話と解釈を重視していた。
要するにシュライアマハーは、キリスト教を「人間とは何か」という問いの中に置き直した点においてはドイツ観念論と並走するものの、彼等に反してそれを哲学的神学の枠内には置かず、「宗教」を独立させた。しかしそうして哲学の絶対化の中から救い出された信仰の在り方、そしてそれを学的に追求する神学は、歴史の中に埋め込まれることにより、シェリングやヘーゲルとは全く別の形で「歴史化」される。
かくして、聖書の記述に忠実に基づくキリスト教のドグマはここで決定的に相対化され、聖書解釈という領野において宗教はまさに「歴史」の問題となった。
4. ヘーゲル学派の分裂/カント哲学と経験科学
ヘーゲルにもシュライアマハーにもそれぞれ別の形で現れた「歴史」の観念が持つ力は、やがて絶対的なものや客観的なものを衝くことになる。実際、ヘーゲルによる哲学的神学の達成は、彼の死後間も無くして逆転させられることになった。と言うのも、彼の学派から陸続と「青年ヘーゲル派」(ヘーゲル左派)が現れたからである。
当時最もセンセーショナルであったのは、ダーフィト・シュトラウス(1808-1874)である。シュライアマハーの自由主義神学とヘーゲルの歴史哲学に影響を受けた彼は、その著『イエスの生涯』(1835)の中で、福音書の奇跡を史実ではない「神話」として描き、当時の人々を震撼させた。ヘーゲルの描いた宗教と哲学の「和解」は早くも崩壊し始めたのである。
こうした崩壊の動きを哲学的に確立しようとしたのが、キリスト教と共にヘーゲルの「精神」を人間の自己疎外であるとして徹底的に批判し、唯物論的な「人間学」を提唱したルートヴィヒ・アンドレアス・フォイエルバッハ(1804-1872)である。このフォイエルバッハの「人間学」により、ヘーゲルの哲学的神学は神的な精神から唯物論的な人間の方へと完全に逆転させられるのである。
例えばアーノルト・ルーゲ(1802-1880)はこのフォイエルバッハの哲学を展開し、キリスト教をヒューマニズムに置き換えて、その政治的実現として社会民主主義を主張し、政治運動へと邁進する。
ブルーノ・バウアー(1809-1882)は、ヘーゲルの哲学的神学の分裂を象徴するかのような人物である。シュトラウスのイエス伝を受けてキリスト教自体が人間による創作であると認め、ヘーゲルの言う絶対精神を「普遍的自己意識」であるとして、その政治的実現のためにキリスト教はむしろ障害になると考え、政教分離を主張する。そこから彼はユダヤ人によるヨーロッパ支配を批判する反ユダヤ主義者になり、ヨーロッパ世界の崩壊を予言するのである。
マックス・シュティルナー(1806-1856)はルーゲやバウアーとは異なり、いかなる意味でも交換不可能な自己の「自我」という「唯一者」にのみ、「自我」の力による所有と消費にのみ価値を認める。この自我は、死という根源的な有限性の上に、つまりは、何の基礎も無い所に立てられるものである。かくして彼は徹底したエゴイズムの立場に立つのだが、その基礎が無であることを認めるのである。この態度はヘーゲル左派から出た思想家の中でも、彼を全く特異なものにしている。
そして、共同生活を送る人間の「類的存在」を根本的な価値と考えた若き日のカール・マルクス(1818-1883)も又、フォイエルバッハの影響下より出ることになる。こうして彼は、ヘーゲルが哲学的神学に回収した市民社会に対してその本質である私的所有という観点から具体的な批判を行い、そこから経済的に疎外されているプロレタリアに対して革命を呼び掛ける。このように生産と関連する人間関係を基層と見るマルクスはプロレタリアを剰余価値の搾取によってブルジョワへと隷属させる資本主義の具体的な分析に進み、その研究の中でマルクスが精神の発展と考えた「歴史」を、生産力の発展から見て唯物史観を提唱することになる。
彼の伴走者であったフリードリヒ・エンゲルス(1820-1895)は、若き日にベルリン大学で老シェリングの講義を受けたことに影響されてか、『反デューリング論』(1878)や『自然の弁証法』(1883)などの著作においてマルクスと共に作り上げた唯物史観を自然科学の領域にまで拡張する。
他方で、ヘーゲルの抽象的な「体系」に対しては勿論、マルクスの経済的な「人類」にも徹底的な批判を加えることによって「宗教」の真の意味を開拓した者がいた。それが、二千年近くの時を超えて一人で神の前に立つこの例外的な「単独者」たるこの私から、全人類にとって普遍的なものが達成されるとして擁護した者、それがデンマークはコペンハーゲンの哲学者セーレン・キェルケゴール(1813-1855)であった。彼は、エンゲルスと同じく若き日に老シェリングの講義を受け、ヘーゲル学派に学んだが、飽き足りなかった。彼はヘーゲル学派に対する批判として、精神的実存を一般的なものや公共的なものから徹底的に区別する。そして、この精神的実存において自分自身であろうとすることが、己だけでは無の上に立つしかないことの「絶望」に直面し、神を失えるその境地から他ならぬその「絶望」によって、正に神の前に一人立つことを導き出した。そしてこの歩みは、彼自身が看取していたように、大衆化と平準化の一途を辿るヨーロッパの堕落の必然的な歴史的帰結であった。そして「単独者」という実存のみが、この歴史的状況を超克することになる。
つまりキェルケゴールにとって、「人間とは何か」という問いは、絶望の中で信仰への跳躍を成し遂げる「単独者」の主体においてのみ絶対的な意味を持ち、その一般的で客観的な意味を喪うのである。
かくして「人間とは何か」という問いはこうした人々が一斉に現れる1840年前後以後、19世紀の半ばにそれまでと全く別の様相を呈することになる。ここで、唯物論的人間と、実存主義的人間に、分離するのである。
更にこの時代以降、カントによって提起された「人間」への問いは、経験科学の興隆に直面しながら様々な相を見せていく。
ドイツ観念論から青年ヘーゲル派へと至るこの動向とは別に、ヨハン・フリードリヒ・ヘルバルト(1776-1841)やヤーコプ・フリードリヒ・フリース(1773-1843)らによって開拓された、カントの超越論的観念論を経験的な「心理学」として受け取り、そうした個別具体的なものから科学の論理を探究する学問として位置付けようと模索する動きがある。彼等は、最高の原理による絶対者の探究というドイツ観念論とは別の、個別具体の日常や特殊諸科学の分析から哲学する道を辿ったのである。
又、ドイツ観念論の思弁とは異なる形で、形而上学を尚も擁護しようとする人々も現れた。フリードリヒ・アドルフ・トレンデレンブルク(1802-1872)は、アリストテレスに触発されて、経験における思惟と存在に「構成的運動」を認め、その運動が有機体的・目的論的であることを主張した。物と物との機械論的な「関係」の全体としての世界を唯一実体とする形而上学を唱え、精神と身体の相互作用、存在と価値(普遍的に「妥当」するもの)の区別を説いたヘルマン・ロッツェ(1817-1881)である。彼は、存在と価値の統一体が神に他ならず、世界を部分的・断片的にしか知ることが出来ない人間はそれを信仰するしかないと言う。
そして、エネルギー保存則の確立者である生理学者・物理学者ヘルマン・フォン・ヘルムホルツ(1821-1894)は、生理学・心理学において探究される識閾下の知覚によってカントの認識論を科学的に正当化出来ると考えていた。
ヘルムホルツの動きの背景には、カール・フォークト(1817-1895)、ヤーコプ・モレスコット(1822-1893)と共に「世俗的唯物論」を唱え、自由主義の旗手であった医師ルートヴィヒ・ビューヒナー(1824-1899)のような存在があった(彼は「ビューヒナー賞」の名の由来である作家ゲオルク・ビューヒナーの弟である)。自然科学的な知識のみによる体系化を訴え、宗教どころか哲学は不要であるとする彼等に対して、カント哲学を重んじる者達は哲学を位置付け直し、その意義を確保しなければならなかったのである。
この動向は後になって、「認識する主観」としての人間において、学問的な認識に規範を与えんとする新カント派と現象学において結実することになる。
同じ頃、分裂するヘーゲル学派の別方面の活動によって、アカデミックな哲学のあり方そのものが変化し始めていた。
哲学そのものの見方の中に、「歴史」の観念が導入されるのである。
ヘーゲルは自らの哲学を終極とする形で理性の発展として古代以来の哲学史を捉え、哲学史講義を行っていた。このようなヘーゲルの姿勢は、後の世代に「哲学史」というものに対する強い関心を喚起することになる。哲学史の研究を行うことが哲学研究を行うことになるのは、ヘーゲル以後なのである。
この転換に大きな役割を果たしたのが、「ヘーゲル中央派」である。
嘗ては哲学徒必携であった有名な大著『近代哲学史』(1852-1877)をものしたクーノ・フィッシャー(1824-1907)(後に新カント派に転向)、ギリシャ哲学への関心を抱いたエドゥアルト・ツェラー(1814-1908)、日本では『西洋哲学史』で知られるフリードリヒ・カール・アルベルト・シュヴェーグラー(1819-1857)、ヘーゲルの伝記を書いたヨハン・カール・ローゼンクランツ(1805-1879)やルドルフ・ハイム(1821-1901)らが挙げられる。
こうして、ヘーゲルの下では哲学的神学であった哲学そのものが、ヘーゲル自身の哲学をも含めて、急速に「歴史化」されていく。
5.自然科学の興隆と人間に関する諸科学の創設−「人間」の「自然化」と実証主義
ここまでの説明で十分理解して頂けるかと思うが、ここまで争われてきた「人間」という概念は、先ず以て、神によって認められる「神の似姿」として信仰者によって自己認識されるキリスト教的な「人間」の像であって、生物学的な動物種としての「ホモ・サピエンス」のことを指すのではない。
むしろ、今見たような「人間とは何か」という問いの絶えざる問い直しの過程の中で、人間の規定が「自然化」(自然科学化)ないし「実証化」されていく過程において、生物学的な人間が登場するのである。
何故ならば、下等動物とも類縁性を持つ動物種としての人間という規定自体が(「ホモ・サピエンス」という分類は分類学の父カール・フォン・リンネ(1707-1778)によるものだが)、現代生物学の始祖とも言えるチャールズ・ダーウィン(1809-1882)による進化論の提唱、もっと言えば彼の『人類の起源と性に関連した淘汰』(1871)以降、一気に主流化する規定であるからである(序でに言えば、出版された当時は殆ど衆目を集めることはなかったものの、フランスの貴族であり著述家であったアルトゥール・ド・ゴビノー(1816-1882)が『諸人種の不平等に関する試論』(1853-1855)において「白人至上主義」=「アーリア人至上主義」を文明論的な見地から唱えたのも殆ど同時代である)。
折しも19世紀の半ばから後半というダーウィンの時代は、「人間」に関する諸学問の分化とその基礎付けが急速に進んでゆく時代であった。マティアス・ヤーコプ・シュライデン(1804-1881)とテオドール・シュワン(1810-1882)による細胞説の提唱、エミール・ハインリヒ・デュ・ボア=レーモン(1818-1896)による電気生理学の確立、グレゴール・ヨハン・メンデル(1822-1884)による遺伝の法則の発見、エルンスト・ヘッケル(1834-1919)による発生学の創設(反復説の提唱)など、この時代に生理学と生化学、そして生物学が急速に発達し、生命現象の物理化学的解明が進む。そのような時代状況の中で、「人間とは何か」という問いも又、「自然化」(自然科学化)ないし「実証化」されていく運命にあった。但し、この時代における「自然化」ないし「実証化」は、必ずしも現代の科学において考えられるものとは一致しないのである。
生理学者エルンスト・ヴェーバー(1795-1878)の弟子である物理学者・心理学者グスタフ・フェヒナー(1801-1887)による精神物理学の確立は、心理的な感覚と物理的な刺激強度の間の対応関係を定量化した点において、その最たるものであるだろう。しかしフェヒナーはこの定量化によって逆に、人間や動物のみならず、植物や無機物にも、ひいては宇宙全体にも「意識」の存在を認める。というのも、物理的な刺激強度の増加に応じて感覚強度も識閾下の「無意識」において増大しており、それが閾値を超えた時に感覚となると彼は考えていたため、「無意識」は通常意識的な存在と認められる人間や動物以外にも遍在していると結論したのである。そもそも彼は、様々な系からなる全体としての宇宙を、単なる機械論的系列ではなく、運動の法則が様々な系において発現する力が織り成している「有機体」として考えていたのである。そしてその極限には、「神的精神」が人格神として想定されることになる。フェヒナーはまさに、精神の「自然化」によって新たな形而上学を打ち建てたと言える。
精神分析学の創始者であるオーストリアの精神科医ジークムント・フロイト(1856-1939)も、神経学者としてキャリアを始めたことから分かるように、人間のこのような「自然化」の潮流の中から出てきている。このフロイトが「エディプス・コンプレックス」という心的構造の分析の中で提示した「無意識」(「エス」「イド」と呼ばれ、性衝動であるリビドー、そして死の欲動であるタナトスから成る)の理論が、「人間とは何か」という問いに根源的な次元で激震をもたらしたことだけをここでは指摘しておきたい。こうしたフロイトの理論が、自然科学的方法論によって全てが解明されるとする通常の自然主義とは異なっていることは容易に理解されよう。
又、「実証主義」を提唱したオーギュスト・コント(1798-1857)、そしてその構想にダーウィンの進化論に接合することで社会進化論を唱えたハーバート・スペンサー(1820-1903)らによって、「社会」における一般法則を探求する「社会学」が誕生する。彼等は、構造と機能から成る生物の有機体システムに準えて社会を考える「社会有機体説」に立っていた。
更に、ヴィルヘルム・ヴント(1832-1920)、そしてウィリアム・ジェイムズ(1842-1910)が生理学的側面からの実験による実証を取り入れることで、それまでの哲学的な一分野としてではない、現代の心理学へと繋がる「心理学」が誕生する。
ここで、今挙げた四人が全員それぞれの専門分野の学者であると同時に「哲学者」でもあったことに注目したい。この事実は、哲学としての「人間学」が実証主義的な方法論とその方法論に従った実験という手法を取り入れることによって諸学へと分化したことを示していると言えるからである。しかしこの時、この問いが自然化・実証化により直ちに「宗教」と縁を切っていないことは、マックス・ヴェーバー(1864-1920)やエミール・デュルケーム(1858-1917)、ゲオルク・ジンメル(1858-1918)らによる宗教社会学、そして、上記のジェイムズによる宗教心理学の創設からも理解出来ることである。但し、「人間」を経験的実証において理解しようという動向において、そこには一貫するものを見出すことが出来る。
この時代において社会学と心理学とは、自然科学の隆盛の中で、自然科学における「自然化」とは異なる実証科学として「人間」を問おうとする潮流だったのである。
6. 歴史学の誕生と歴史主義−「人間」の「歴史化」
更に言えば、「人間への問い」の「自然化」の動向と同時期に、そして哲学そのものの「歴史化」と同時に、人文学の分野では同じ問いの「歴史化」の旋風が巻き起こることになる。
「歴史」に関する近代的な学知が専門分化したのは、の少し前のことである。
ドイツでは、アウグスト・ベック(1785-1867)によって古典文献学が確立される。そしてヘーゲルの思弁的な発展史観に対する批判から、レオポルト・フォン・ランケ(1795-1886)、「ヘレニズム」という語を提唱したヨハン・グスタフ・ドロイゼン(1808-1884)によって史料批判を重視する実証主義歴史学が定着する。そして、先に挙げたシュライアマハーに代表されるような、正典的な聖書理解のドグマティズムを解体し、キリスト教を言わば「歴史化」した近代聖書学も、これらの動向の成果を摂取しつつ、それに歩調を合わせて登場する。政治史に偏重していたランケの後には、「ルネサンス」という語を広めたスイスの歴史家ヤーコプ・ブルクハルト(1818-1897)が文化史学・文明史学という見方を編み出す。
これらの動向の前には、ドイツ観念論に並行して、ドイツ人文主義の代表者にして近代大学のモデルを構築した言語学者ヴィルヘルム・フォン・フンボルト(1767-1835)や、代表的ロマン主義者フリードリヒ・シュレーゲル(1772-1829)、その兄で、イギリスの東洋学者サー・ウィリアム・ジョーンズ(1746-1794)に次いでヨーロッパへのインド哲学受容において功を成したアウグスト・ヴィルヘルム・フォン・シュレーゲル(1767-1845)による、比較言語学的な研究の蓄積があった。
そしてここでも、こうした流れに並行していたのは「宗教」への問いであった。とりわけ、19世紀末から第一次世界大戦前までゲッティンゲン大学を中心に隆盛を迎えたドイツ宗教史学派の存在は特筆に値する。彼等は、宗教への内的共感から宗教の発展の姿を追跡する宗教史の方法を原始キリスト教に適応し、その思想と祭儀の宗教性を文献学的に実証しようとして、その起源を東方のヘレニズム宗教に求めた。そして、同様の手法からルネサンスと宗教改革による西洋近代の本質を追求したのが、エルンスト・トレルチ(1865-1923)であった。
これらの「歴史化」の発想源には、カントの同時代人であり、彼の哲学に刺激を受け、その最大の批判者の一人ともなった哲学者・文学者ヨハン・ゴットフリート・ヘルダー(1744-1803)がいたことは何度強調しても強調し足りないであろう。聖書的伝統を絶って言語を徹頭徹尾人間に起源を持つものと考える彼は、言語による人間の陶冶を主張し、その考えを基にして「人間性」と「時代精神」から人類の歴史の発展段階を解き明かそうとしたのである。ヘルダーの登場を以て、カントのものとは異なる、もう一つの歴史主義的な「人間学」が誕生したと考えるべきであろう。
この事実は、カントによる「人間とは何か」という問いには「一切を歴史の相のもとに」見る歴史主義が並走していたことを意味する。
このような歴史の問題を最も真剣に受け止めたのは、カントの「純粋理性批判」に倣った「歴史的理性批判」の名の下に、広義の人文科学全般を指す「精神科学」の基礎付けを行ったヴィルヘルム・ディルタイ(1833-1911)であった。自然科学が急速に発展する傍らで彼は、まず生の構造連関を記述し分析する「記述的・分析的心理学」という方法論を標榜する。やがてはそこから発展して、歴史的な文物を、直接体験的な生の表現として理解し、価値体系との連関において解釈する「解釈学」を方法論とすることによって、歴史的な人間の根源的な全体を歴史学的に理解することを目指した。そして、そのような生の構造連関の全体は「宗教」「文学」「形而上学」といった「世界観」として表現されると考えた。
ここでは最早、形而上学は哲学の問いではない。問われるべきは人間の歴史的生の構造連関である。そしてこの問題は、歴史の只中に生き、歴史を解釈する人間の精神的生自身によって問われる他はない。このように、ディルタイに至って初めて、「人間とは何か」と問うことが、この問いをそもそも歴史主義的に問うこととして正当化された。
7. 「認識する主観」の問題−新カント派と現象学
自然科学、特に生物学、そして、歴史学、社会学、心理学等の諸学が著しい発達を見せる中、それらに学的認識を還元出来ると主張する立場が現れ始める。前にも挙げたビューヒナーらの自然科学的唯物論、そして、今から述べる実証主義である。その最も極端な立場を主張するものとして、エルンスト・マッハ(1838-1916)やリヒャルト・アヴェナリウス(1843-1896)がいる。マッハは、ニュートンの「絶対空間」「絶対時間」「力」といった概念、そして原子論的世界観やエネルギー保存法則を形而上学的であるとして否定し、感覚諸要素の関数的関係に全てを還元しようとしたのである。アヴェナリウスは、一切の形而上学的原理を排して「純粋経験」の立場から全てを説明しなければならないと主張し、人間のあらゆる経験領域を数学的操作で記号化しようとした。
しかし、そうした判断を行う認識主観自身の問題は、果たしてそれらに還元出来るのだろうか。かくして「人間とは何か」という問いは、何かを妥当であるとして判断することで「認識する主観」の自立性の問題としてもう一度顕在化してくるのである。ここでは最早、ドイツ観念論が人間の視点から改めて問題としたような形而上学は問題ではない。考察されるべきは、人間とその認識の自然化と歴史化のあわいにあって、自然と歴史を「認識する主観」としての人間、諸々の認識を基礎付ける超越論的意識としての人間である。
この点から、カントが論じていた人間の認識における形式の意義を、そしてカントが理念として考えていた当為の価値を、もう一度問い直す動きが起こる。
その潮流こそ、カントを生理学的に再解釈しようとしたフリードリヒ・アルベルト・ランゲ(1828-1875)に始まり、オットー・リープマン(1840-1912)の有名な標語「カントに還れ」に象徴される新カント派である。
ランゲの弟子としてマールブルク大学で教鞭を取ったヘルマン・コーエン(1842-1918)は、カントが直観の形式としていた時間や空間をも思惟の範疇であると考え、数学や自然科学の知の基礎付けを思惟自身による産出と思惟による統一(思惟自身によるこの対象構成作用が「根源」と呼ばれる)において遂行しようとした。要するに、判断以前の生の事物や事実を認めず、判断の全てを思惟それ自体に還元しようとするのである。そして彼は、無限定で限定可能な「或るもの(x)」が無限小(微分)として考えられ、その無限小要素の積分によって、限定された有限量の「かくかくのもの(A)」へと移行すると考えた。そして彼は、倫理学の対象である価値や規範をも、こちらは認識ではなく意志によって、法律、社会、国家の順に論理的に産出出来ると考えていた。かくして、パウル・ナトルプ(1854-1924)、エルンスト・カッシーラー(1874-1945)と続く所謂「マールブルク学派」が彼から生まれることになる。後に新カント派から離脱し、独自の批判的存在論を唱えたニコライ・ハルトマン(1882-1950)も当初はコーエンとナトルプの指導を受けていた。
又、ロッツェに支持したヴィルヘルム・ヴィンデルバント(1848-1915)は、「「法則定立」的な自然科学と「個性記述」的な文化科学(精神科学ともいう)の認識形式における線引きに尽力した。ハインリヒ・リッケルト(1863-1936)、エミール・ラスク(1875-1915)と続く所謂「西南ドイツ学派(バーデン学派)」が彼から生まれることになる。リッケルトは、主語(非合理的な感覚的質料)と述語(空間・時間・因果など合理的なカテゴリの形式)を結合して認識を形成する「判断」において、個別的異質的事実から一般的法則的な方法的手続きが加えられるか、「個別化」が咥えられるかによって、自然科学と文化科学を区別した。そして、対象の認識の根源に「真」という価値の命令を置く価値論によって、判断を基礎付けようとした。
新カント派にはこの他にも、物自体と、所与としての感覚の多様を認めるカントの実在論的な側面を強調し、実証科学との関連で哲学を認識論的なものに制限しようとしたアロイス・リール(1844-1924)がいる。
概して言えば、新カント派は、事実の知覚よりも理論の構成を重視し、価値をイデアと考えることによって、カントの超越論哲学を観念論的な認識論の方面へと徹底させ、学的な認識を基礎付けようとした。そしてコーエンも、リッケルトも、存在と価値の統一を、超越的には神(コーエン)ないし形而上学世界(リッケルト)、内在的には美的感情(コーエン)や象徴(リッケルト)に、即ち「宗教」に認めていたことを付言しておきたい。
このように、新カント派はあくまでも理論的な形式と価値の当為というカントの枠組みに拘った。しかし、そうした形式的な前提に乗らず、しかも人間の認識の「自然化」である心理主義にも陥ることなく、純粋に意識内在的に認識を基礎付けることは果たして不可能なのだろうか。その試みこそ、オーストリアの哲学者エトムント・フッサール(1859-1938)が創始した現象学である。
まず、彼の師であるオーストリアの哲学者フランツ・ブレンターノ(1838-1917)は、スコラ哲学から派生した「志向性」の概念をもって心的現象を物理現象と異なるものとして特徴付けていた。それによると、全ての心的現象は内容を自らの内に持ち、対象への向きを持っている。その意味で、意識とは常に「何かについての意識」であり、対象は意識の「志向的内在」である(ブレンターノの意味における「対象」の概念を、存在のみならず非存在にまで拡張して哲学的に発展させた者として、オーストリアの哲学者アレクシウス・マイノング(1853-1920)がいる)。
同じ頃、数理論理学と分析哲学の祖であるゴットロープ・フレーゲ(1848-1925)は、アリストテレスの論理学を一掃する概念記法を考案し、命題論理と述語論理を公理化した。そして、それを用いることによって、数学を論理学の諸規則から演繹しようと試み、数学の基礎付けを図っていたのである。
元々数学者だったフッサールは、論理学や数学の諸概念や諸法則のイデア的意味を基礎付けるために、ブレンターノが取り上げた「志向性」の思想に目を付けた。それらのイデア的意味は、当時主流であった経験的心理学から全てを導出しようとする心理学主義によっては担保され得ない、とフレーゲらの批判を受けたことによって気づいたのである。そして、意識から超越した存在を自明なものとして捉える自然的態度を保留にした状態で(この手続きを「エポケー」と呼ぶ)、超越論的な意識に内在する「事象そのものへ」と立ち返り続ける(この方法論を「現象学的還元」と呼ぶ)。そして、意識が意味を構成する仕方を明らかにすることによって、「本質を直観する」という意識の純粋な理性作用を捉えようとしたのである。大きく言えば、これがフッサールの現象学であった。
この現象学は、彼自身の立場も又転変する20世紀になって、その協働者達(例えば「哲学的人間学」を提唱したマックス・シェーラー(1874-1928))や弟子達(例えばマルティン・ハイデガー(1889-1976))と共にヨーロッパ精神史に巨大な影響をもたらすことになるが、ここではそのことを指摘するに留めたい。ただフッサールは、人間とその認識の自然化と歴史化の巨大な進行の中にあって、「哲学」がどのように固有の領域を持つのかという課題に対する一つの答えを確実に指し示したことは銘記すべきであろう。
8. 「人間」と「無」−ショーペンハウアーとニーチェ
ここで顧みれば、18世紀末に登場した「人間とは何か」という問いは、ドイツ観念論という哲学的神学の中で、絶対者が如何に主体において顕現するのかという問いとして問われた。しかしヘーゲル学派の分裂の中で、この問いは赤裸の人間を如何に捉えるのかという問題に読み替えられ、政治的な運動を巻き起こすことになった。同時にこの問いは、19世紀の中頃位には、急速に進歩した自然科学の荒波の中で、人間の自然化を突き付けられると同時に、その問いの始まりから(つまりカントと並走したヘルダーの頃から)勃興しつつあった歴史主義の最中にも巻き込まれていった。そして19世紀後半に至ってこの問いは、「認識する主観」の自立性、すなわちカントが論じた超越論的な認識主観の根源性を如何に正当化するのかという問題として考えられたのである。
しかしながら、そもそもカントが提起した「人間とは何か」という問いを問う中で、今まで述べてきた思想家達とは全く異なる回答を導き出す者達がいた。即ち、「東洋」との邂逅を通して、そこに「無」を見出す者達が。
その一人が、ペシミズムの哲学者アルトゥール・ショーペンハウアー(1788-1860)である。
彼はカントの後継者を自認していたが、ドイツ観念論と同時代を生きながらそれに激しく反発した。そして、当時移入されていたインド哲学と仏教の精髄を取り入れることによって、ドイツ観念論とは全く異なった仕方でカント哲学を引き受けた。
彼はまず、カントの言う現象界を「表象としての世界」であると考え、空間・時間・カテゴリーによって構成された表象でしかないとする。世界とは、主観によって制約された客観としての私の表象である。その上で、カントの言う物自体の世界(叡智界)を「意志としての世界」であると捉え直した。この意志とは、人間存在の根底にある決して満たされることのない盲目的な生命衝動としての意志である。
そしてショーペンハウアーによれば、人間どころか全自然が、すなわち世界それ自体が、究極の目的を欠いたこの終わるところを知らぬ意志の自己認識として作り上げられていると考えたのである。人生もまたそこに由来するが故に、それはそもそも苦悩と退屈、欠乏と困窮から成る。藝術によって純粋な表象であるイデアを直観し、個体であることを脱することによって、少なくとも一時的には意志を脱することが出来る。完全に意志から逃れる術は、意志による個体化の原理(「マーヤーのヴェール」と呼ばれる)を突き破って、共苦ないしは同情の愛の境地において他者の苦しみと自分の苦しみを同一視し、更に、この境地の下で自らの生きんとする意志を自発的に否定し、無にするしかない。
かくしてショーペンハウアーは、「人間とは何か」という問いの彼方に無を見出す。ショーペンハウアーの盲目的意志にヘーゲルの理性を接合して万有の普遍的一元的根源として「無意識」として定式化したのが、エドゥアルト・フォン・ハルトマン(1842-1906)であった。しかし、「人間」という規定そのものを西洋の歴史性の基に考察し、この歴史的な問いの歴史的な終焉として無を見出したのは、フリードリヒ・ニーチェ(1844-1900)であった。
ダーフィト・シュトラウスの『イエスの生涯』に影響を受けて信仰を捨てた彼は、古典文献学を学んでいた若き日に(一時期親交を深めていたロマン派オペラと楽劇で知られる音楽家リヒャルト・ヴァーグナー(1813-1883)と共に)、ショーペンハウアーに巨大な影響を被った。そしてその強い影響下で、第一作『悲劇の誕生』(1872)を書き、古代ギリシア悲劇を、造形藝術に見られる形式・秩序の形成衝動を表す「アポロン的」と、音楽藝術に見られる陶酔的・創造的衝動を表す「ディオニュソス的」の対比という斬新な概念で読み解き、それらの理論的・楽天的なソクラテス主義による滅亡を説く。
この書は、物議を醸した。正統派古典文献学の祖となるウルリヒ・フォン・ヴィラモーヴィッツ=メレンドルフ(1848-1931)らに全否定されることになる。弱冠24歳でスイスはバーゼル大学の古典文献学の教授となっていた彼は、この批判により職を辞すことになる。
その後は在野の思想家として、やがてショーペンハウアーからもヴァーグナーからも離反する。ニーチェは、当時急速に進歩していた心理学、生理学、生物学、そして仏教をはじめとした古代インド思想に強い影響を受けつつ、ショーペンハウアーとヴァーグナーのロマン主義に行き着いた、キリスト教とギリシア哲学に淵源するヨーロッパ文明を徹底的に批判し、その終焉を告げる。
曰く、現象界とイデア界を分けるプラトン以来の形而上学(カントも又、現象界と叡智界を分けていた!)の超越的真理は19世紀当時にその効力を失っているが、最初からそのような最高の諸価値などそもそもなかったのであり、歴史的なニヒリズムの到来は必然であった、と。そして来世を説くキリスト教は、大衆向けのプラトン主義に他ならず、弱者のルサンチマンに由来する奴隷道徳である、と。彼によれば、一切は生の価値によって眺められた仮象であり、生のパースペクティヴによる遠近法的な無数の解釈である。即ち、客観的な価値は存在せず、生の肯定と否定のみがある。それ故に、今ここの生とは「別の」、超感性的な「絶対的真理」を説くプラトンのイデア界、キリスト教的な人格神、近代の哲学者の説く理性は、それ自体がそもそも生を衰弱させるニヒリズムでしかないのである。
ここに至れば、カントが提起したキリスト教由来の「人間とは何か」という問いは、当の「人間」という概念と共に、それ自体が無効化することになる。残るのは、ただここにある実存的な「生」、しかも例えばディルタイの言うものとは異なって、その在り方そのものが「歴史化」される以前の「生」である。そしてニーチェはその立場から、言うなれば「人間」の「歴史化」の結末を「ヨーロッパのニヒリズム」という形で喝破し、その上で、その「自然化」を「生」から推し進めることによりその超克を目指す。
何となれば、神とその似姿としての「人間」、神と獣の間にある存在としての「人間」というキリスト教的前提は、神の死の洞察、そして、キリスト教道徳の必然的な歴史的帰結としてのニヒリズムの洞察以後、超克されねばならないからである。今や、「人間とは何か」という問いに向き合い、その問いに答えるのではなく、「人間」を超克しなければならないのである。
そうして彼が説くのは、一切の彼岸的なものと世界内の諸価値の否定に他ならない各瞬間の「永劫回帰」という「ニヒリズムの極限」である。「およそ到達しうる最高の肯定の形式」を生の「力への意志」によって、自らの運命の今ここを愛する「運命愛」を以て引き受けるものこそ、「超人」である。かくしてニーチェはこの「超人」に「ディオニュソス的」な生の肯定の極致を自ら見出す。
かくしてニーチェは、キェルケゴールと同じヨーロッパのニヒリズム的状況に直面しつつもキリスト教自体をその歴史的起源であると見定めることによって、キリスト教的実存を絶対化したキェルケゴールが歩まなかった道を歩んだのである。それは、如何なる意味であれキリスト教的な意味を帯びていた「人間」の終末を告げる道に他ならなかった。
9.終わりに−「人間」の消滅に際して
そのニーチェの洞察を引き取るようにしてフーコーが「人間の消滅」を宣言しておよそ六十余年を迎えた今、我々は、カント以後になされた「人間とは何か」という問いの顛末をどのように受け取り直すべきであろうか。
カントの超越論哲学において提起された「人間とは何か」という問いは、そのままにキリスト教的な「人間」を如何にして「人間」自身から考えるのかという問いであったが故に、ドイツ観念論に至って、絶対者の哲学的神学としての形而上学を産んだ。そこで最終的に問題となったのは「歴史」の問題だったが、折しも、ヘルダーに始まる人文主義的な歴史主義とランケに始まる実証主義歴史学によって、「人間」の「歴史化」の動向が幕を開けた。又19世紀における自然科学の急速な発展は、生理学や生物学、或いは心理学によって人間を自然主義的に理解する道を開き、「人間」の「自然化」への動向が始まったが、それは時に独自の形而上学や人間理解を構築する道ともなった。それとほぼ同時に起こった社会学や心理学の誕生は、こうした人間の実証主義的な理解を別の方向から目指す道を開拓した。そして、こうした「人間」の「自然化」と「歴史化」の間にあって、「認識する主観」としての「人間」の問題を哲学固有の問題として追究したのが、新カント派と現象学であった。ただ、これらとは別に、東洋の思想の影響を受けて、そもそも「人間」に無を見出すショーペンハウアーとニーチェがいた。
現代において、「人間」をめぐる「自然化」と「歴史化」は、それらと形而上学や宗教との対立ではなく、「自然化」と「歴史化」そのものの相剋になっている。
例えば、人間の心理メカニズムは進化生物学の意味における生物学的適応であると仮定する進化心理学は、まさにダーウィンの人間論を継ぐものとして、「自然化」の最たるものであると言えよう。
それに対して、人間の認知する現実は絶えざる認識と解釈の中で制度化・慣習化されることによって社会的に構築されていると考える構築主義は、「新歴史主義」とも言うべきその歴史主義的な発想の前提において、「歴史化」の最たるものと言えるかも知れない。
両者の相剋は、19世紀において「人間」をめぐる問題が殊にヘーゲル左派の展開において政治的な性質を帯びたことに倣う如く、現代において政治的対立にまで深まっている。ここでは差し当たり、「人間とは何か」という問いの持つ形而上学性と宗教性、それと知の根拠との関わり、そしてその問いの問い直しの中で進行した「自然化」と「歴史化」を、19世紀のドイツの哲学思想史を辿り直す中で再確認したのみである。
※ 投げ銭の御願い
今回はカントの「人間とは何か」という問いから、19世紀ドイツの哲学思想史を知る限り出来るだけ細かく様々な要素を拾い上げて概観してみました。このような見方を面白いと思って下さる方がもしもいらっしゃいましたら、何卒投げ銭の程、宜しくお願い申し上げます。大変励みになります。
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