帝国育児日記①「藁をも掴みたい誰かに届け」
息子の話をします。
こういう話を赤裸々に綴るのは諸刃の剣というか、誰かにとっては目障りであり、また誰かにとっては藁をもつかむような、そのひと筋の藁になったりもすると思うのですが。可能であれば後者になれば良いな、と、思いつつこれを書きます。
◆
私には4歳になる息子が居ます。
生後半年ばかりから、夜驚症かと思うほど激しい夜泣きに三年以上ずっと毎晩悩まされ、多動的な特性――集中できず常に走り回り、動き、手を繋ぐこともままならならず、わたしの声は彼の耳には届かないというような――を持っている男児です。
4歳になった今も二語文(「マンマ、チョーダイ」「ママ、ドージョ」くらいのもの)を喋ることが限界という有り様の坊主です。
わたしにとっては、目に入れても痛くないと揶揄できるような、ほんとうに愛らしい息子なのですが、世間様から見れば、5~6歳程度の体格の立派な幼児ですから、彼の内面とのギャップは異様に見えるでしょう。
わたしの静止も効かずに道端でごろ〜んと寝転がり、「立って、お願い、タッチして、ブーが来るよ、ブーの来る道ではねんねしないよ」と泣きそうな顔で叫んでいる母を無視して「アーウ、トゥットウットゥ、ディーヤ」などと、“車に轢かれる可能性がある”ということすら認知もできないで奇声をあげている暢気な奴ですから。
そんな彼は、いよいよ知的障害と診断され、自閉スペクトラム障害という名前が付きました。
発達に問題があり、言語障害などを併発しているため社会的なコミュニケーションが難しかったり、感覚に過敏すぎるところがあったり、不眠や入眠困難などの身体症状があったりします。風邪などの病気とは違い、脳の異常から起こる特性なので、療育などの専門的なフォローが必要です。
うちの長男は二年半以上掛けてK式の発達診断を何度か受けてきましたが、今春の結果も前回と変わらずDQ45ほどという結果です。
数値にこだわっている訳ではないですが、数値で出るとやはり気にしてしまいます。
DQとは?と思われた方に補足しますと……
ディーキュー、つまりDevelopmental Quotientと言うもので、発達指数と翻訳されます。
子どもの発達過程を示す指数というわけです。
子どもの発達状態を一定の基準で検査し、数値化して“今の発達状態がどのくらいの年齢に相当しているか”を算出してくれているというものです。
100に近ければ近いほど内面的な発達と実年齢との差異が少なく、100を下回り離れれば離れるほど実年齢と、内面的な発達にギャップが出ます。
うちの長男であればDQ45ということですから、実際には4歳という年齢でも、彼の内面的な発達、倫理観や認知の仕方と言うのはおよそ半分程度、2歳~2歳半ということになります。
……どうしょうか。わたしもまだ書籍を捲ったり、お医者様から解説して頂いたりしている最中のまさに勉強中でして。
少しでも分かり易ければよいのですが。
◇うちの子と、よそを比較してみる
さて。
定型(この言い方は好きではないのですが)の4歳のお子さんがお茶を飲みたいと思った時はどうするのでしょうね。
私には“4歳の肉体に4歳相当の年齢が宿っている子ども”がいないのでわかりませんが……きっと、コップを持って来て「ママ、お茶飲みたいからちょうだい」と喋ってお願いするとか、自分で選んだお気に入りのマグカップに適量を注いで飲み、コップをきちんと机に置くなどするのでしょうか。
これがうちの長男の場合、先ず発語がほとんどないので、ちょうだいとかおねがいとか、そういう“人に頼む”というアクションがありません。
突然うろうろ、そわそわと動き回り始めて、伝え方がわからず暴れたりもします。
時には食器棚の前に椅子を積み木のように並べ始めて、“自分の欲求を、自分だけで満たそう”とします。
これは自閉スペクトラム障害の幼児にありがちな、自分以外の“他者”という認知が薄いからです。
出来ないことは頼めば良いとか、より適切に、より効率的に他者を頼って要求を充たそうという考え方が難しいのです。
長男の生きる世界にはまだ“自分以外”の他者が上手く存在していません。コミュニケーションを取る必要性も理解できていません。
なので、お茶が飲みたいな……と思った時に、
彼は、
①私を含めて周囲の大人に頼る
②お茶が飲みたいと言葉や動作で訴えかける
というごくごく当たり前の、効率的なプロセスを踏むことが難しいのです。
だって、彼の世界には彼しかいないのですから。
結果、長男は食器棚からグラスを取り出して体勢を崩して落として割ったり、グラスを取り出すことにまんまと成功したとしても、なみなみと注いでしまい溢れてしまって、床一面を焙じ茶の海にしたりしてしまいます。
また、うちの長男は自閉スペクトラム障害の中でも多動・衝動性の強いタイプなので、焙じ茶の海を眺めながら“おっ、これプールみたいじゃん”、“やべ〜、面白いな、水溜りにも似てるなぁ”と思ってしまい、最早お茶が飲みたかったことなどどうでも良くなり、目の前の別の楽しそうなことに夢中になり、惨状を放置して水遊びに興じている可能性すらあります。
ASD(自閉スペクトラム障害の略称です)の児は凡そASDだけでなくADHDを併発して発症している可能性が高いです。うちの長男も例外はなく注意欠陥的な要素があるし、多動症です。気が散り易く、要求を維持することが難しい時もあります。
このように、彼としては『ただお茶が飲みたかっただけ』なのに、こういう彼の思考パターンとか彼の元素的な要求は周囲にはいっさい伝わっていませんから、「何してんの!もう!何でこんなことするの!?」と怒られたりするわけです。
……悪循環ですね。
長男と居ると、こんなことが24時間、エブリデイエブリタイムいつも起こります。
室内に泥だらけの長靴を持ち込み布団の上で跳ね回っていたり、排便したオムツが気持ち悪いから……と、「オムツかえて」「ウンチでちゃった」のたったひと言が言えない故に自分で脱いで、それどころか自分の便を指で弄び壁に塗ったりもしますし、2~3時間おきに頻回覚醒するショートスリーパーなので朝3時に窓のロックをすべて開錠して雨戸を開けて、寝ている私と次男に目潰しして「オハヨッ」と起こしてくれたり、深夜に突然思い立ちベランダからプランターを持ち出して室内に入れて、畳の上で泥遊びを始めたりもします。
サイテーです。
日常生活において、わたしは彼の行動だけに集中している訳にはいきません。
この家にハウスキーパーがいるとか、私が母親ではなく長男専用のメイドや乳母であるとかすれば可能だったかもしれませんが、あいにく、何の変哲もないただの母です。
ただの母親ですし、我が家には2歳になる次男もおりますから、炊事・洗濯・掃除……一通りの家事とご近所づきあいはこなさなくてはなりません。
一瞬でも目を離したら壁にウンコを塗りたくるような4歳が居るのに、わたしは怒鳴らずにいられるでしょうか。
無理ですね。
これは経験して貰わないと共感はしてもらえないと思うのですが、絶対に無理です。
何をしでかすか分からないから兎に角ずっと行動を気にしていますし、何かが起こってしまった場合には、なるべくわが子の、『どうしてそんなことをするに至ったんだろう?』という思考パターンに寄り添うようには心がけているのですが、わたしにも余裕がないときは多々ありますから、どうしても、「何してんの!何でそんなことするの!いい加減にしてよ!」と怒鳴る羽目になります。
もしかすると長男はただお茶を飲みたかっただけかもしれないのに。
……悪循環ですね。
◇発達について
さて、そんな我が家の長男は今、療育プログラムの受けられる園に通園しています。
幼稚園や保育園に願書を出しましたが、ある程度の面接や筆記等々を踏まえた上で、“この子の発達状況では集団保育が出来ない。専門の療育が必要である”と判断されたからです。専門の知識のある、療育の態勢が整った園で、本人に合わせたプログラムを受けて生活しています。
加えて、OT(作業療法:Occupational Therapy)や、ST(言語聴覚療法:Speech-Language-Hearing Therapy)を受けています。
こういう訓練を受けることで、長男の発達段階をきっちりと理解し、現状の彼の“できること・できないこと”、これから成長していくうえで“できるようにならなくてはいけないこと”を訓練し、伸ばしていっている――という状況です。
このコロナ禍ではそれにもかなり制限があり、現場の先生方は消毒や衛生面に配慮した手順などたいへん手を焼いていたと思うのですが……、やはり流石のプロの訓練ですね。見違えるところはありました。
年少のこの一年間訓練してやっと、
①クレーン動作(なにか要求がある時に、大人の手を重機のクレーンのようにとって持っていき示す行動のこと)から、指差し主体に変わった
②数種類のハンドサインや手話を憶え、『食べたい』『眠たい』『欲しい』などの要求の際に種類別に要求に応じて用いるようになった
③「チョーダイ」「オネガイ」など、名詞以外の単語を発語するようになってきた
④動物の名前やキャラクターなど、50~100語程度の簡単な名詞の発語を確認
⑤数字に興味を示し、指差し+自発的に発音・主張するようになった。特定の数字であれば漢数字表記でも認知しており、発音する
⑥他者とのコミュニケーションに積極的になり、視線の合う時が増えた
⑦弟を「生き物」として認知し、可愛がる、気にする、悪さをすれば注意してやるなど行動する
という程度の発達を見せてくれました。
「え?4歳なのにまだそれくらいなの?当たり前のことじゃないの?うわぁ、障がい者ってやっぱりそういうものなんだ……」
と思われる親御さんも居られるかもしれません。
それも当然の反応ですね。
ただ、うちの子は感覚に対する鈍麻が少ないので、逆に、「凄い!排尿感覚があるなら良いじゃないですか!うちの子なんてまだ……」と思われる親御さんも居るのかもしれません。
そうだったとしても当然のことです。
わたしはわが子しか知る由もないので、あなたがわたしに話し掛けて下さらない限り、自分の子以外の成長過程は知りません。当然のことです。
子どもの成長とは千差万別です。
なにが正しいとか、なにが間違っているということは絶対にありません。遅いとか早いとか、ただそれが事実なだけで、遅いから間違っている、早いから正解、と、そう考えるのは気落ちするだけなので止めておいた方が良いです。
これは、わたしが4年間わが子に寄り添い続けてやっと至った結論です。
まあ、たとえば自分の子どもの発達に少し悩みのある親御さんが、こんな辺境のnoteに辿り着くとも思えませんし……わたしが、剥き出しで自分とわが子についてきちんと記述することで、世界のどこかにいる“そういう”ひとの、たったひと筋の藁になれば良いなぁ、と思ってこれを書いているのですが。どうだろうなぁ。このnoteに壁打ちしているわたしにとってはただ想像するほかありませんが、そうならいいと思います。
……脱線しましたね。
◇「イヤダ」を言うために
さて、一年近くの訓練を経て長男はある程度の発達を見せた、と言いました。
しかし、依然として4歳の長男の倫理観、認知面の年齢は、下の子の実年齢とほぼ同じ、2歳代なのです。
2歳ってどんなイメージでしょうか。1人でやりたいさかり?ややこしくてイヤイヤをよくする?こちらの話は聞いてるけどあちらの主張は全くもって分からない?……まぁ、おおよそ合ってます。
長男は、「イヤ」の主張がまだできません。
言葉で伝えられないので、「イヤだ!」と主張したいときに長男は私を殴ります。
腹や脚や尻や腰を殴り、蹴りつけて、フルパワーで叩き、調子が良ければ「インヤ!ママ!ライ(嫌い)!ヤ!」と言葉で主張したりもします。
わたしはそんな時、煮えくり返るはらわたを何とか抑え込んで、長男と目線を合わせるためにしゃがみ込みます。そして、なるべく穏やかな声を作って、怖い印象を与えないように努力して必死に口角をあげて笑顔を作りながら、「そうかぁ、嫌だったんだね。何が嫌なの?○○だったのかな?」と声掛けします。
長男はそんなわたしの内心を知りませんから、しゃがみこんでくれたおかげで打ちやすくなった頬をしたたかに打ち、思いっきり爪をたててぐににっと抓ります。
抓っているのが面白くなってきたのか、ほくそ笑みながらさらに余った片手でもう一方の頬まで抓り始めました。
それでも私は「○○くん。何が“イヤ”なの?」と聞かなくてはなりません。
殴るとか抓るとか、他害行動は赦されることではないです。
わたしも、自分以外の――たとえば彼の弟とか、よそのお子さんとか――にしようもんなら、周りがドン引きするようなデカい声を出して「やめろ!」と止めますし、被害者に誠心誠意謝りながら、泣いても許さないという語調で低い声をだし、長男がベーベー泣いても許さずにこんこんと叱ります。
当たり前です。
親として、“他人に危害を加えてはならない”ことを、知的障害の彼だからこそ、きちんと、厳しく躾けてやる必要はあります。
もちろん、「叩いちゃうくらいイヤだったんだよね。そうか。イヤだったね。怒られて余計にイヤだったよね、うん、そうだね。でもママが怒ってるのちゃんと聞いてくれたね、ありがとうね。イヤだ!って言うためにペチンするのはダメなことだね。○○くん分かるもんな。うん、分かるな、そうか、分かってくれてありがとう。じゃあ次どうしようか。おお、そうだね、ゴメーンネ、しにいこうか。ママと一緒に行く?よし、オッケー、手を繋ごう。ゴメンネしにいこう。すごいな、○○くんは切り替えられてすごいなあ、えらいなあ」と、ちゃんと児本人への気持ちのフォローもします。
人前で我が子を怒る、というのは、そこまで求められてしまうことなので、なるべく未然に(他害を)防ぐように行動をコントロールしてはいますが……。
さて、この、「イヤ」に関する主張。
知的障害でない定型のお子さんには、イヤイヤ期というのがたぶんあったのだと思います。今うちにいる2歳の次男がまさにそうです。
ただ、長男にはこれがなかった。
なかったというと語弊がありますが、彼は「イヤ」という思いを、嫌だな、やりたくないな、そういうことを言ってるんじゃないのにな……という概念を表出することができません。できないというか、どう伝えていいのか分からないのです。
いちばんは、発信する言葉を持たないから。
そして、嫌だと主張して受け止めてもらえると思える信頼関係を、未だ周囲と構築しきれていない=長男が信頼して自分を託せられるコミュニケーション範囲がまだ狭いから、という理由です。
そもそも、“イヤ”を主張できずにずっとここまでの3年間、長男は、「嫌だとも言えずに自分の爪を血が出るまで齧って耐える」とか「嫌だ、やりたくない、そうじゃない、と主張する手段を知らないから、何度も壁に頭を打ち付け、額が内出血してボコボコに腫れあがるまで自傷し続ける」とか、そういう行動を繰り返してきました。
何度も。
何度も、です。
一日の中で何度も、スーパーや道端でも突然泣きだし、喚き、ときには横断歩道のど真ん中で突っ伏して喃語で叫びながら、頭を打ちつけて泣いていました。
長男は、「お友達におもちゃを取られても『いやだ、やめて、かえして』と発語できないし、そもそも“嫌だと言うことを発信する方法も、その必要性も分からない”から、奇声をあげて大声で泣きながら床に頭を何度も打ち付ける」以上のことができなかったのです。
痛々しいけれど、これは世界のどこかに、どこにでもいる子どもの現実です。
これを可哀想だと思いますかね?どうなんだろう。どう思いますか?客観的に聞いてみたいですが。
まあ、そんなわたしの長男において、「発語ないし行動で、他者に“イヤだ”という意思を主張できるようになった」ことは、大いなる一歩なのです。
彼が私に無言で噛みつくまでには2年掛かりました。殴る蹴る叩く、「イヤ」と発音するまでにはそこから更に1年かかりました。
けれど、やっと、“わたしに伝えてくれる”ようになりました。
だから、わたしは彼の発する痛みに向き合わなくてはならない。
発達に問題のある幼児に於いて、他害行動で「イヤ」を主張する場合は先ず、
①「そうか、嫌だったんだね。○○が嫌だったんだね」
と、児本人が“イヤだと思っていたこと”を言葉で代弁してやる必要があります。これはある種言語療法的なプロセスで、こうして彼の声にならない主張を何度も大人の言葉で繰り返して耳に入れてやることで、長男本人の思考の中にいつか、“ああそうか、この気持ちを「イヤ」というのか。ぼくはこれが「イヤ」だったんだ”と認知させてやる効果があるのです。
さらに、
②「叩かれたらママは痛いよ。痛いのはイヤだな」
と、私も主張することです。もしその時演技でき得るような体力が残っているのならば、「エーンエーン、痛いよぉ。○○くん、ママのほっぺた抓ったらママ痛いよ、悲しいよぉ」と、大袈裟に泣く演技をすると効果的です。発達障害児の多くは共感性が高いので一緒に泣いてしまう・涙ぐむような素振りを見せる子もいるかもしれませんが、ママも人間なので痛いのは当たり前です。寧ろ、叩いてもリアクションしないでいると、子どもは「赦された」「これくらいのことはしてもこの人は怒らないんだ」と学習します。
真摯に向き合って、やさしく、穏やかに対応することができないほど疲弊しているときには、いっそ無関心を貫いたり、殴られそうになったら避けても良いです。
これはかかりつけの小児心理専門のお医者さまも言っていたことです。
大人だって殴られたくないですよね。避けても良いんですよ。当たり前です。
必ずしも、笑って、ニコニコと子供に合わせてやさしくし続けるのは不可能です。私たち、親が壊れてしまいます。
発達段階の幼い児童を、“守るべきもの”として過剰に大切に扱いすぎることは、わたしは逆に悪影響なのではないかな、と思っています。
だから真正面から向き合うのはなるべく、まぁ体力の残っているときだけになりますが……。
ママだって殴られたら痛いし傷つくし、ママだって○○くんみたいに大声で泣くからね、めちゃくちゃショックだったからもうわんわん泣くからね、と、そんな風に言うこともあります。
長男は私に共感してすこし泣いたあと、わたしの頭を撫でてくれます。わたしが彼にそうしてきたように、『ゴメンネ』のつもりで、わたしを抓ったり殴った手できちんとわたしを撫でてくれて、抱っこして、と、ハンドサインをしてきます。
わたしはそれに「ありがとう」と言います。
分かってくれてありがとう。教えてくれてありがとう。発語の少ない長男ですが、彼は「アーットォ(ありがとう)」と言えるようにもなりました。時と場合が間違っている時もありますが、聞く頻度の高い言葉はやはり覚えやすいようです。
言葉がなくてもきちんと彼は学習しています。
あきらめず、向き合い続けることだけが親にできることです。
途方もない反復を毎日毎日、嫌になり泣きながら、母子共にわんわんと吐くまで泣いたりする日々を続けてやっと、ここまで来られました。
◇母とは
さて、彼の「イヤだ」に向き合わなければならない――とは言いましたが、わたしも人間なので、殴られれば痛いし、蹴られたら痣が残るし、噛まれたら歯型がじくじく痛むし、容赦なく髪の毛を毟られれば10円ハゲができます。
午前三時ころ、寝ているわたしの鳩尾めがけて渾身の蹴りを入れてきてさわやかに「オハヨッ」と言う長男に笑顔で「おはよう!」と言えるわけもありません。
いってえなバカタレまだ3時じゃねーかと思いつつ、「まだ夜!ネンネなの!お外みてごらん、ほら、まだ暗いよね。暗い暗い。だからネンネなの。お、や、す、み。おやすみだよ!」とブチ切れるくらいのことしかできません。
母親とは、常にニコニコと笑顔であるべきです。
母親とは、いつもやさしく、子どもを受け容れてやる土台であるべきです。
母親とは、穏やかで、安心して“帰って来られる”存在になっているべきです。
そんな理想は百も承知です。
わが子がやっと行動や言動でイヤだと主張してくれるようになった。それはとてもうれしいです。DQは相変わらず40~50の横ばいだけれど、間違いなくこの一年間で成長している。
それもすごくうれしい。
だけど、一瞬目を離したら玄関の鍵を全て器用に開錠し、チェーンも外して門扉を飛び出し、「ブブー」と車の前に飛び出していってしまうような長男と暮らしながら夕餉を作るのは非常に困難です。
真夜中、やっとふたりの子どもを寝かしつけ家事をすませて(日中の家事を夜に極力終わらせることで、日中はなるべく子どもの一挙手一投足だけに対応・専念できるようにしているのです)、まだ夜間に数回夜泣きで起きてくる2歳の次男をトントンと寝かしつけて……そうしてやっと寝入ったとしても、2~3時間おきに覚醒し、さらに早朝覚醒する長男が起きるころには私も起きて彼を見張っていなければ、寝室の壁はウンコ塗れ、床には放尿、ベランダからプランターを持って入ってわたしの枕元で土いじりを始めてる……なんてことになってたりします。
寝てる間なんてもう、気持ちとしてはハンター×ハンターのゴンとキルアですよ。
何巻か忘れてしまったけれど、ビスケのもとで修行するシーンのイメージです。
主人公のゴンとキルアが大きな岩を括りつけられた紐を握っていて、その岩を頭上に掲げられたまま睡眠をとる……寝こけてしまって握っている紐が緩めば頭に巨石が落ちてくる、という訓練だったと思うのですが。
ああいう状態で24時間暮らしています。
うちの長男は定型の子よりずっと認知が幼く、危機管理ができず、自傷他害もしますから、保護責任者であるわたしの一瞬の気の緩みでうちの子は命を落としてしまいかねない。
だから24時間ずっと気を張っていなくてはならない。こんな生活を4年以上続けているせいで、今では動悸がして夜なかなか眠れなくなってしまいました。
夜、わたしが昏睡したら長男がベランダから落下する夢を見ます。チャイルドロックも簡単に外してしまえる彼がロックをはずし、ガードを乗り越えてベランダの鍵をあけ、ひょいっと乗り越えてしまう夢です。わたしが起きてさえいれば。わたしが眠っていなければこの子は死ななかったのに!わたしが気を抜いたせいだ、わたしが気を抜いたから、この子をずっと監視していなくてはならなかったのに、わたしのせい、わたしのせいだ――冷たくなったわが子を抱いて救急車を呼び、震えながら泣いている、そんな夢を見て、はあっと蒼褪めながら起きる。こんこんと眠っている長男と次男の脈を確認してやっと胸を撫で下ろす……そんな夜がよくあります。
正直、しんどいです。
発達障害児の「イヤ」に向き合うのは、とても、とてもしんどいことです。
こういう私の、「一度でいいから8時間続けて寝てみたいなぁ。夜泣きしない子ってすごいなぁ」とか「イヤイヤって叩かれるのもうすげー嫌なんだけど」とか「母親って理不尽だよね。どうしてこんなに殴られて蹴られて、めちゃくちゃ痛いし悲しいのに耐えなくちゃならないんだろう」とか、「発達障害だからって私を叩いて許されるわけじゃないよね?でもよそのお友達叩くよりはよっぽどマシだ、わたしできちんと止めなくちゃ」とか、「ASD児に付き合うのが辛い、だなんて、誰にも言えない。それどころか、イヤだったんだね~って殴ってくる相手の気持ちに寄り添わなくちゃならない。これは絶対にすることはないけれど、もしもわが子に応戦して手をあげたらそれは虐待になってしまうし、こういう、発達児あるあるみたいな愚痴を聞いて共感してもらうどころか、こんな話をできる相手すらいない」とか、「ふつうの子、いいよなぁ。夜寝たら朝まで起きないんだって。オシッコ行きたくなったらオシッコって言って暴力以外で伝えてくれて、言葉で起こしてくれるんだって。凄いよね。やっぱりそれが定型と障がい児の差なんだよね」とか、こういう、箸にも棒にもかからないようなこころの奥のもやもやを吐露できる場所って、どこにもないわけです。
▲これはわたしの愚痴ツイート。
以前ツイートしたのですが、知的障害児をもつ母親に対するフォローアップというのは、どうしても後回しになりがちです。誰にも言えないし、悩みを共有する土台ができていないことが多いです。
お子さんが発達障害であるということを言いたがらない方は多いですし、私も気持ちはわかります。
このコロナ禍で、会食などが難しくなり、愚痴ティータイムなんかも無くなりました。
母親が悩みとか苦しみを吐露できる場所はかなり少ない。共有して救われるわけではないでしょうが、人に話してすこし共感したりしてもらえるだけで、心理的に負担が減ることはあるでしょう。
母本人も母親ですからね、悩むし辛いし疲れるし悲しいししんどいです。
だけど、母親って子どもと違って大人だし、自分のことは自分で出来て当たり前、と、されてしまいがちなのです。
母親とは、常にニコニコと笑顔であるべきです。
母親とは、いつもやさしく、子どもを受け容れてやる土台であるべきです。
母親とは、穏やかで、安心して“帰って来られる”存在になっているべきです。
そんなことは百も承知です。
分かっていますよ。
努力してそう努めています。
ただ、出来ない日があるのです。
わたしのこのストレスや負荷は、だれに吐露すれば良いのでしょうか。今のところ誰にも吐き出せないので、深夜キッチンでそうっとアルコールを煽ったりしながら、今日の悲しみは明日に持ち越さないように、と、そういう風に必死に内包しながら、なんとかやっています。
難しいな。でも日々暮らしてたらトンデモナイことが容易く起こるし、そうなると怒鳴っちゃうよね。
……悪循環ですね。
笑っていたいです。
ずっと笑っていたい。ずうっと、やさしくて穏やかで、あたたかい母親で居たい。
そうならよかったのに。
そういうお母さんだったら、うちの子はもっと発達していましたか?
――きっと違いますよね。
それも分かっています。
だけど、無性につらいときがあるんです。
向き合い続けるしかないから。我が子だから。自分が母親だから。当たり前のことだけど、この終わりのない日々に向き合い続けるしかない。
しかも、自分の子がゆっくりと成長していっている間、定型の子は同じように発達しているので、差はひらくばかりです。それがむしょうにつらい。
喋らない。目も合わない。癇癪がある。多動で、感覚過敏で、トイレトレーニングどころの騒ぎではない。オムツも取れないし夜もまともに寝てくれない。それが毎日続きます。毎日毎日。終わらない。
疲れて当たり前です。
ふつうの育児ですらめちゃくちゃ疲れるのに、発達障害を持つお子さんの育児って、『その子に合わせたフォロー』が必要不可欠で、また、それは、必ずしも周囲に理解してもらえるものではありません。理解を得られず、やって当たり前なので褒められることもなく、お給金が発生するわけもありませんし、子どもの意思ひとつ知るのに2時間かかったりしますから徒労感も半端ない。
四六時中ニコニコしてるなんて無理ですよ。
当たり前です。
発達障害児ってとてもゆっくり時が流れています。
彼らはわたしたちと違う、すこしだけ穏やかでセンシティブでやわらかな時間の中にたったひとり、暮らしているのです。だからわたしたち、親と共に時間を過ごせるようになるまで時間がかかるのでしょう。
だけど、これっていつ終わりますか。
いつになったらその“時”が来るんでしょう。
うちの子はいつ喋れるようになりますか。
彼の気持ちが分かる日、わが子と会話できる日はいつ来るのでしょうか。わが子と目線を合わせて、心の奥底から力を抜いて「大変だったよね」なんて微笑みながらティータイムなどに興じられる日って、わたしにはいつ来るのでしょうか。
分からない。
見当もつかない。
分からないことはつらいです。
いつ解消されるのかまったく未定のことはつらい。コロナ禍の今の様に。分からないことはすごくしんどくて、大変で、つらくて、やるせ無いのです。
こういう無性に悲しくて、やりきれなくて、どうしようもない日があるときに、どこか支えになるようなコミュニティがあれば良いのにね、とは思います。
わたしがもっと、こんな辺境のnoteでなく大っぴらに、どこかもっと、多くの“ほんのひと筋の藁でもいいから縋りたい”ような気持ちで暮らしているどこかのお母さんに巡り合うために、大々的に赤裸々に綴ることが出来れば良いなあ……とは常々思うのですが。
なかなかそうは上手くいかないので、こうして少しずつ、辺境のnoteに記します。
これが、がながな帝国の育児日記です。
しんどいけれど、今日も明日に持ち越さないように上手くやりましょう。
疲れたね。愚痴りたいなぁ。書き出してみると少し楽になるかもしれないです。同じように子どもの発達で悩んでいるなら、わたしと話したりしても良いかもしれないですね。負担を変わってあげることはできないけれど、一緒に悩んだり、頷くことはできますよ。
一人じゃない時間を増やそう。
子どもを育てる負担をたった一人で背負うのは難しいように、大人の負担も分散して背負うべきです。
あなたにとって、温かいコーヒーをひとりきり、ほうっと啜れるような時間が一日の中で一瞬だけあればいいなあ、と思いながら、一度閉めます。
長々としたものを読んで頂きありがとうございました。
また赤裸々に育児日記を書きますね。
どこかのあなたに触れられますように。