【最近の学び】アスパラガスは手で食うらしい
「春の連続投稿チャレンジ」に便乗した執筆スピード向上週間。今回は #最近の学び というお題に沿って、食に関する最近の学びを書き連ねる。
都会の良さは安く知識を仕入れられるところ
私は日本画と呼ばれる古い絵画を研究したくて、京都の大学に通った。京都での生活が私にもたらした新しい趣味といえば、蚤の市と古本市に行くことだ。
廃盤になった本というのは、得てしてコアな魅力がある。儲けが出るような大衆受けはしないものの、本を出そうなどと考える奇特な層のお眼鏡には適う、尖ったセンスが光っている。
尤も、私も凡人で、体の悪いことに貧乏人でもあるので、必ずしもそういった稀覯本を買うわけではない。安く川端康成が買えるなら、とたかだか新潮文庫を古本で買うこともある。
求めていなくとも、相手の方からやって来る知識もある
『ティファニーのテーブルマナー』という本は、そんな知識との出会いの場である古本市で見かけた。
タイトルの通り、銀食器やジュエリーを販売するあのティファニーが、ノベルティとして配布していた若者向けのマナー本らしい。洒落ていながらも肩肘張らない挿絵がなんとも味わい深い、薄い冊子だ。
フィンガーボウルの逸話などは小学生の道徳の教科書に載っていたりもするので馴染み深いが、中には「アーティチョークは(中略)歯でこいて食べます」だとか「ホストが食べ始めるのを待つ必要はありません」だとか、今になって知るマナーもあり勉強になった。
ところで、このようなマナー本はビジネスが多様化し「失礼クリエイター」などと皮肉られる講師・コンサルタントがいる現代においては、掃いて捨てるほどある。そんな中この古いマナー本に惹かれたのは、その翻訳された時代ならではの含蓄ある何気ない一言が私の胸にすっと刺さったからだ。
東大がまだ東京帝国大学だった頃の人間が、つまり貧しく苦しい戦禍を乗り越えて間もない人間が、礼節を知る時期はとっくに来ておりますと宣っているのだ。
マナーなど覚えなくていいという怠惰
対する我々は如何だろう。多様性という便利な言い訳に甘んじて、或いは合理性や論理的思考などという詭弁に便乗して、簡単なマナーさえ学ばず、守ろうともしない。浅ましく「山犬のようにみっともな」く飯を食い散らかすわけだ。
instagramなどのSNSでは「人が食べ物を食べる」というだけの映像が一定の評価を得、閲覧数を獲得している。だが、そういった食事風景にふとマナー違反やお行儀の悪さが見えると、コメント欄は大抵その無作法に業を煮やす。そして擁護派が「誰にも迷惑をかけてないんだから好きに食わせろ」と開き直る。
本当に迷惑をかけていないのだろうか。SNSを利用し、楽しいコンテンツはないかと探しているときに不快な映像が流れてくること自体、迷惑行為に相違ないのではないか?
何のためのマナー
改めてマナーとは何のために存在するのかを探ってみる。
ざっとネットで調べた限り、私が事前に建てた「衛生学が未発達な時代に、病気や食中毒を予防するために習慣づいた」という仮説は想定されていなかったようだ。ともあれ、山奥で一人暮らしをするわけではなく、他人が作ったものを食べたり、衆目のある場で食べたりする人間なら――つまりネットを利用できるような環境にいる者なら必須の知識教養ということになる。
挿絵の軽快さに騙され、児戯を眺めている気分でいた私ははっと背筋が伸びた。毎日の食べ物に困らず、寝床も得られているのだから、私はとっくに礼節を知る時期に到達している。実際、義務教育中に学校から、テーブルマナーを知ることができる薄い冊子を配られたことも思い出した。
マナーとは偉ぶった特権階級の見栄の張り合いではなく、困窮者以外は覚えて当然の、文化的な生活を送る人間にとって初歩中の初歩となる教養なのだ。
まずは心がけから
そうしてここ数日は、パンはむしゃぶりつかずにちぎって食べ、フォークの背と腹はどちらが上かを復習しながら食べるようになった。
食事は時間をかけて咀嚼すると、満腹中枢が働き出して食べ過ぎを防いでくれる。品のある食べ方の練習ができて,ダイエットにも一役買ってくれて、一石二鳥ではないか。そう思いながら、食べ物があることの有り難みとともに食事を味わう時間はまあまあ悪くない。