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村上春樹【風の歌を聴け】”ものさし”について

ハートフィールドがよい文章についてこんな風に書いている。
「文章をかくという作業は、とりもなおさず自分と自分をとりまく事物との距離を確認することである。必要なものは感性ではなく、ものさしだ。」(「気分が良くて何が悪い?」1936年)
 僕がものさしを片手に恐る恐るまわりを眺め始めたのは確かケネディー大統領の死んだ年で、それからもう15年にもなる。15年かけて僕はじつにいろいろなものを放り出してきた。
                        村上春樹 「風の歌を聴け」

 一時期、村上春樹の本を集中的に読んでいたことがある。それは、たくさんの村上ファンとおそらく変わらない。彼の作品はおもしろい。そして、本を読んでいる時間が楽しく、いつまでも読み続けていたいという感覚を呼び起こす。特に昔の作品についてよりその感覚は強度を増す。

 最近自分がよく手にとっているビジネス書などは往々にして読むのが辛い、それは、自分が学んだことがない定義だったり、考え方だったりが書いてあり、読み進むには、まず定義やロジックをクリアしなければ、その後の内容も全く入ってこないということが多いからだ。

 その点、村上春樹の小説は文章のリズム、使われる言葉や、会話が南国のリゾートホテルのプールサイドにいるかのように心地よい。

で、”ものさし”の話。
 上の引用文での「ものさし」とは、単に「事物と事物の距離」というよりも、自分の周りに起こっている出来事や、自分と人との関係性を捉えるための、思想や哲学、もしくは価値観であるとわたしは解釈した。それこそが、自分と事象との距離を測る”ものさし”なのではないかと。

 作者の真意はわからないが、事実、この本を読んでいた頃、わたしは様々な”ものさし”を使って、この世界のなんたるかを理解しようとしていた。

 生活を営んでいれば、自分の周りには様々な出来事が起こりうる。その出来事や、関係性をどのように、理解し判断していいのか。そもそも、この世界と自分はどのような関係性をとっていけばいいのか。

 自分の前に、全てが等価値で存在していたら、これほど怖いものはなく、自分は何を判断基準に選択し、あるものとは距離をとり、また、他のあるものを大切にしていくべきなのかがわからなくなる。その時に必要なのが”ものさし”である。
 

”ものさし”の尺度は?
 自分と自分をとりまく事物との距離をどのような尺度で測るのか。
どのような価値観で測るのか。

 ”ものさし”で距離を測る際、どのような価値観で、どのような物の見方で距離を測るかによって、ものの見え方、自分と事物との距離が自ずと決まってくる。自分にとって大切に思えたものでも、価値観によっては、不要になる場合も少なくない。自分が選択した価値観によっては、自分をとりまくほとんどの物が不要になる。ということもありうる。物事を同じ尺度で測れば、必要なものはより洗練され、不要なものは選別され整理されることになる。

”ものさし”の尺度は多数あったほうがよい
 「”ものさし”の尺度は多数あったほうがよい」というのが、たくさんの物差しで測り、あるときは捨て、あるときは拾い直し整理してきたわたしの考えだ。

 あるひとつの事象でも、たくさんの見え方があってよい。見る人によって、見え方も価値もまったく違うものになる。ある人にとっては不要なものであっても、ある人にとっては、かけがえのない大切なものであることは当然あり得る。それは、自分の時間軸の変化によっても起こりうる結論だ。

ほんで、よい文章とはなんなのか
 さいきんでは、短いセンテンスの文章など、より伝わりやすい文章が好まれる傾向がある。当然である。それほど皆んな暇ではないのだ。生産性を上げる。これが人類の至上命題であるからだ。AIに負けるわけにはいかないのだ。
 しかし、本当にそうなのだろうか、現在、生産性向上、成長性優先の渦中にいるわたしには、その反論が思いつかないが、また新しい”ものさし”を手に世界を測るときが来たら、また違ったものの見方で、その時に必要な表現方法で、価値を伝えようとするのではないかと思う。


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