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人の不幸って笑うために存在しているのか?(映画感想)
ヘッダ画像をお借りしています。
ジョン・ウィックという映画を見て、
不幸続きの人が不幸と戦う様をエンターテインメントとして楽しみ、消費しなきゃいけないのか?ということを考えました。
そしてそのまま、ジョン・ウィック Chapter 2を見ました。ジョン・ウィック2であり続きですね。
ぼくは「ジョン・ウィック1を楽しんで見ることは、面白かったという感想を得ることは、ジョンソン(主人公)の痛ましい人生をあざ笑う上位次元の存在にでもなっているような気がして」いたため、気が進まなかった。
しかしながらぼくの感性はジョン・ウィック1を見終わった後、爽快な気持ちになってしまった。そうは言っても身体は正直だな、みたいなものです。
(ジョナサンに対する)言い訳をするのであれば、1でジョナサンが残した結果は称賛に値するものだった。だから見終わって爽快だと思えた。せっかく続きがあるなら見よう、というものでしょうか。
ジョン・ウィック2を記号で捉えてしまった
見たらその……「え……同人誌??」と思ってしまった。
「監督ほんとに同じ?」とも言えるでしょうか。なんと言えば良いのか、全てがジョン・ウィックの記号を使っただけのように見えた。
例えばぼくは受付のシャロンの真摯さとか融通がきかない人じゃない感が異常に好きだったので、それがまた見れたことは嬉しかったのですが……
見せ方の違いでしょうか。1の契機となったマフィアのガキも単なる無能なカスではありましたし、2の契機となるサンティノも単なるクズでしかなかった。こいつらがジョナサンの幸せを壊す。
似たように中途半端な殺し屋の女が出てくる。聾唖者に変わっただけの、です。聾唖者がジョナサンを殺す動機も忠誠心……なのか知らないがその中性を示すべきサンティノがそうしろと言ったからジョナサンが現にこの行動をいやいや起こしていることがわかっているのかいないのか。短絡的といいますか、動機につながりがない。
ホテルの中では殺してはいけないという不文律を守るために一時停戦が起きる。裏稼業で生きる人々の異質な特異点にジョン・ウィック1では見えていましたが、2では単に編集点という記号に見えてしまう。
1でマフィアから噂されたジョナサンが鉛筆ひとつで3人殺したというエピソードを2ではジョナサンが実演する。1を見た人への訴求という単なるマーケティング記号。
誓いのメダルも1の伏線を無理やり回収した上で、無理くりジョナサンを戦場へ引っ張り出すための記号……
あとはマトリックスにおけるモーフィアス役でジョン・ウィック役のキアヌ・リーブスとめっちゃ共演したローレンス・フィッシュバーンを出演させたこと。
これはキアヌ・リーブス好きといいますかマトリックス見たことありますよ的な一見さんを引きつけるためだけの記号ではないのでしょうか。
言うなれば映画の題名としてのジョン・ウィックの売名でしかない。ジョナサンの心に寄り添ってはいない。
そしてジョナサンの車がクリスマスにならないと治らないといったオーレリオが時間経過後、クリスマスに車とともに登場すると思ったがそんなことはなかった。
……。
ジョナサンの最後の牙城である、妻との思い出を奪うことも、家を焼き尽くして手元に何も残さないようにして、ジョナサンに無理やり復習という動機を与える。
次はジョナサンの内蔵でも奪うのか?
すべてが、ジョナサンに無理やりこういう行動をさせるための舞台装置にしか見えない。映画は舞台装置を上手く隠すことに芸術性があるのではないだろうか。
ジョン・ウィック1の異質さ
ジョン・ウィック1があまりに異質だったのかも知れない。ずっとジョン・ウィックがどういう人なのかが意図的に明かされなかったためです。
奥さんを亡くした、でも気遣ってくれるかつての同僚とか人には恵まれている。でも車で無茶をするのが好きみたいなぶっ飛んだ趣味がある。孤独に生きている人だが独り言は一切言わない。
ヒューマンドラマとしてあまりにも完成していた。
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