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枝葉末節・エコライズ

ぼくは倍速視聴をやり玉に上げ、やれZ世代がどうのとかファスト映画で物事を消費した気になってる層と一緒くたにする自称知識人さまがたのその暴論について気息奄々たる思いで枚挙に暇がなくなるわけですが、唯一等倍で見る映画のある部分がある。ヘッダ画像をお借りしています。

ウィットな殺人

それがエコライザーにおけるデンゼルの殺傷シーンだ。
ぼくはエコライザー2を観ました。

エコライザー1を観た時の

エコライザーは会話もウィットに富みすぎているのが憎たらしいところだ。憎たらしいという意味は思わず好きになっちゃって悔しいという意味だ。

特にスーザンに対してビビアンから自分の衣服を棄てられ、彼女好みの服を着る他なくなってしまった思い出を語るシーンなんてその絶頂だ。

ウィットに富んでいるとは言え、やりすぎると萎えるのが視聴者の厄介なところです。例えればBLACK LAGOONまではいかないけどきざったらしいといえばいいだろうか。もちろんBLACK LAGOONを読むとぼくが萎えるとかではなく、そもそも媒体が漫画と映画であり120°ぐらい違うから比べようがない。BLACK LAGOONからあの台詞群が消えてしまったら、BLACK LAGOONの魅力は半ば薄れてしまうのではないでしょうか?

エコライザーが人気な理由

エコライザーが人気の理由について考えた。

あるメディアでぼくはエコライザーが日本人に人気あるらしいみたいなランクを観てしまった。往々にして各媒体やメディアサイトにおけるランクなんて集計方法のどこかに欠損があるんだから、結果が左右極して当たり前だ。

だからランクなんて信ずるに値しないんだけど、エコライザー2を観て1の良さも思い出したし、日本人に人気な理由もわかってしまった。それは正しい水戸黄門であるからというものです。

正しい水戸黄門とはかつて1の感想にも書いたようにジョン・ウィックも目指した(?)はずで挫折したパーフェクトな勧善懲悪を実現した部分にある。ぼくがあまりにもジョン・ウィックに対して希望していたことが内容で実現されず、その後に見たエコライザーが完璧なジョン・ウィックであったことがあまりにも衝撃だったのでしょう。1からまだ半年も経ってないのもある

勧善懲悪と言ったが観ようによってはエコライザーも悪なんでしょう。人を殺しすぎた。でも奥さんが殺されて不眠だ。さっき書いた時点では知らなかったけど、ほぼ唯一となった友達であるスーザンまでぶっ殺されてしまった。もうスーザンは話に介入できない。エコライザー3が生まれたとしても。

エコライザーとはあまりにも孤独なデンゼルの一挙手一投足を観まくるのが軸の映画だ。そんな折、視聴者の目にも親しんだスーザンが2であまりにも哀れにぶっ殺され、それがまた別の友だちによるものだというんだから視聴者のマッコール(デンゼル)への感情移入はパないレベルになります。

1ではそれがあまりにも哀れな娼婦の女だった。視聴者は彼女にも感情移入する。彼女を助けてやってくれ。その時点ではエコライザーの何たるかを知らないが、エコライザー2でははなっからエコライザーのエコライズ然とした方法論なりなんなりを知っている。

だからそれは映画の創りのハードルをガン上げしてしまうことになる。ぼくらはエコライザー1を観て、スーザンとかマッコールの時計とかそう言う部分を観てほくそ笑むことになる。でもそれがなかったら、どうせエコライザーが正義でやすやすと悪をしょっぴくんだろ、と思えてしまう。

で別にそう思おうが構わないわけです。やすやすと行くかどうかを知るために観るだけでエコライザーのエコライズっぷりに感性を焼かれることになるから。脚本家が強すぎる。2つのことを同時にやる。タクシーで客をどこかへ届けるような繊細な運転をしながらその客と殺し合い、スーザンをぶっ殺したカスを殺すための準備を黙々と進めながら、路を踏み外そうとしている近所のキッズレベルのナードを改心させるために奔走する。特養老人ホームにいる彼の願いが虚しく、近づく嵐に飲み込まれようとする。そしてそのすべての行動が無駄ではなく帰結する。

これは芸であり術だ。ぼくらは映画を通して完成された映像としてのアートをエコライザーの中に見ている。

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中村風景
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